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【1】「手を伸ばしても届かなかった」
夏休みが残り一週間となり、錦は自称誘拐犯の男と共に朝比奈家に帰宅した。
言いたくもない「さよなら」を告げ別れる筈の誘拐犯は、驚いたことに錦を先導して敷地に入っていくではないか。
此の世の終わりを目の当たりにした気分だった。
何を考えているのだと半ばパニックに陥った矢先、玄関先で母の千春と鉢合わせる最悪の展開を迎える。
錦はありとあらゆる言い訳と男を擁護する言葉を必死に探すが全く頭が働かない。
いっそこの男を殺して自分も死ぬかと、本気で考えた時男と母親の笑い声にはっと我に返る。
和やかに会話を始めた二人に、目が点になった。
何がどうなっている。
事態の転換に頭がついて行かなかった。
そんな錦に彼は笑顔で自らの正体を明かしたのだ。
『海輝。』
『海が輝くって書いて海輝。』
喉から手が出る程欲した男の素性。
手を伸ばしても届かなかった男の秘密。
呼んでみたいと焦がれ続けていた名前を、彼は自ら摘み取り錦の手の中に落したのだ。
『――三年前、君が7歳の頃、朝比奈の親族内から養子縁組をされた子供の話聞いていない?』
体がざわついた。
体内の血が轟音を立てながら満ち引きをする。
養子縁組の事実は、父親が自らの手で朝比奈と言う母体から錦を間引いた決定的瞬間だった。
不要な果実として、摘果され地に転がされた。
「僕以外の誰かが君を誘拐していなくて良かったよ。 君、あの時声かけたのが僕でなくても着いて行ったでしょ?」
「――そうだろうな。きっと着いて行った。」
「駄目だよ。」
「偶々声をかけて来たのがお前だった。俺にとってお前は、赤の他人でただの誘拐犯だったんだ。 お前からすれば違った訳だが…俺は本当に何一つ知らなかった。――面白かったか?」
玄関で微動だにしない錦に参ったなと海輝が頭をかく。
錦は冷ややかに見返した。
そうでもしなくては、乱れる感情の収拾がつかない。
「いきなり「兄です始めましてこんにちは」するより衝撃は少ないと思ったんだけど…うぅん。 本当に悪かったよ。――別荘で自分の事を告げる勇気がなかったと言うのが本音だ。だってそうしたら君、 僕を警戒するだろう?折角仲良くなれていたのに、自分から台無しにするなんて事出来ないよ。」
ごめんね。
申し訳なさそうに謝る海輝に、錦は俯く。
もっと別の理由が有る事は分かっている。
不安定の極みであった錦の精神状態を慮っての結果だ。
分かってはいるが、悩みぬいた時間がこの一瞬で崩されてしまい感情が上手く処理できない。
一度拳を振り挙げたのは良いが、ぶつけるべき対象がいない事実に困惑していると言って良い。
――この男が、義兄なのだ。
誘拐犯であった男の正体に魂が抜かれる程衝撃を受け、 驚愕故に安堵や喜びを察知する感覚が麻痺していた。
ようやくこの男の側に居る事が許されたと知った時、 走馬灯のように、夏休みの間悩ました数々の負の感情が打ち寄せた。
本来感じる筈の喜の感情よりも、現状で感じる必要の無い寂しさや悲しさが凄まじい勢いで脳内を駆け巡る。 そして最終的に怒りになり替わった。
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