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凄雨

 朝、と言うよりもう既に昼近い時間に航二は喉の渇きで起きた。久しぶりに航太の匂いに包まれたおかげか、ぐっすりと眠れた。夜中にこの部屋に入った時は、混乱と動揺によってきちんと見ていなかったが、日の光によって見える埃が漂う寝室の様は、リビングに勝るとも劣らない荒廃ぶりだ。航二は床に散乱しているあれこれを踏まないように気を付けながらリビングに移動する。部屋全体を見渡してみるが航太の姿はない。ふと医学書の塔に目を向けると、その上に白い紙と長財布が置いてある。紙には「仕事に行ってくる。暫く帰れないから、必要なものや食料は自分で揃えろ」と走り書きがあった。思わず溜め息が漏れてしまう。航太は昨日も仕事があったはずだ。そして、今日も朝から仕事に行った。兄だって疲れていただろうに、突然押しかけてきた航二を布団で休ませた。まるで子供の頃のように、自分を第一に考えてくれる過保護な兄の面影を無意識に探してしまう。そんな自分が何だか嫌だった。もう二十歳になったのに一体どこまで兄に依存しているのだろう。このままだと自己嫌悪の海に溺れそうだ。大きく息を吸い込み、目を閉じてゆっくり吐き出す。何度かそれを繰り返した。    すると、寝起きに感じた喉の渇きがぶり返してきた。航二は冷たい水でも飲んで、その後に気分転換も兼ねてこの汚部屋の掃除をしようと決意した。水を求め、小さな距離だがキッチンへと移動する。リビングにあるキッチンは意外と広い。しかし、そこは異質だった。この汚部屋と同じ空間にあるとは思ないほど綺麗なのだ。流石にシンクには水滴がついているが、コンロはまるで一切使っていないような、手つかずの状態であると言っていいほどである。一応小さな冷蔵庫はあるが、炊飯器や電子レンジなどをはじめ、まな板や包丁、食器類など本来生活に必要とされるキッチン用品が何もない。冷蔵庫を開くと、なんと中は空っぽだった。それどころか電源すら入っていない。流石に水くらいはあるだろうとある種の願望にも似た望みをかけていたが、バッサリと切られてしまった。仕方なく水道水を手ですくって飲む。    次に顔を洗おうと思い洗面所に移動する。やはりここはリビングと寝室同様に汚かった。洗面台には歯ブラシ、歯磨き粉、洗顔フォーム、シェーバーとクリームが無造作に置かれていた。それらを見た途端、謎の安心感を覚える自分に航二は小さく笑った。タオルが一枚残らず全て床に落ちていたので、航二は洗顔後に今着ている寝巻の袖口で顔を拭った。  その後、とにかくこの部屋を綺麗にすることに専念した。当然だが洗濯は一回では終わらず、洗濯機を回している間に掃除して、洗い終わった洗濯物を干してまた回して掃除して取り込んで干して…を何度か繰り返した。    すっかり日は暮れ、月が空を支配する頃に鳴った自身のお腹の音に集中力が切れた。航二は、そういえば今日は朝から何も食べていないなと思い出す。先程洗ったばかりの航太の服を着て、スマフォと航太の財布を持ってコンビニに向かった。今晩用のお弁当を兄の分も含め二つ、明日の朝の為におにぎりとパンを数個と水、それから下着を二枚購入した。航太は暫く帰れないと書き置きを残していたが、兄の分も買わずにはいられなかった。  夜十一時を過ぎても航太は帰ってこない。もしかして帰れないのではなく、帰りたくないのでは―――。一度よぎった考えはなかなか頭から離れてくれない。昨日少しは話したが、それは会話らしい会話とは言えなかった。もっと色々なことが話したい。十年前、突然航二への態度が急変した理由、その二年後に家を出てから何を考え、何をしていたのか。そして今、どんな思いで航二に接してくれているのか。  分からない。兄の気持ちや考えが何も分からない。分からないことが怖い。自分が何をして兄を傷つけてしまうか、嫌われてしまうか分からない。昨日、航太に掴まれた腕が熱い。航二は自分の身体を抱くように縮こまった。航太にもっと触れたい、触れて欲しい。腕だけではなく、その身体全体で包んで欲しい。あのかさついた唇に自身のそれを押し付けたい。口内を激しくかき回して欲しい。そして―――…。でも分かっている。それはいけない事だと。実の兄に対し抱いてはいけない感情だと分かっている。それをもし兄本人に伝えたら嫌われるだけでは済まない事も、それだけは分かる。  航二はその場で自身を扱く。兄の服を着ながら、兄の部屋で、兄の事を想いながら達した。 「コウ兄、コウ兄っ…ごめん、俺、ごめんなさい…」  涙と共にこぼれた白濁はすぐに止まったが、涙は止まることなく流れ続けた.

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