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雨宿り

 航二は一度大きく深呼吸をして心の高ぶりを抑えた。 「あ、あの、久しぶり、コウ兄…」  震えながらもなんとか声を出すことに成功した。電話の向こうで息をのむ気配がした気がする。しばらくの沈黙の後、ようやく返事が聞こえた。 『…ああ、久しぶり、コウ。こんな夜中に一体どうしたんだ?』  それは先程のような掠れた声ではなく、航二の記憶の中と変わらない真っ直ぐな声だった。  それから航二は兄の指示に従い、大通りでなんとかタクシーを拾って、電話で聞いた住所へと向かった。自分でタクシーを拾ったのは生まれて初めてだったため緊張した。暫くすると、綺麗で立派なマンションに到着した。  すると、すぐに誰かが近づいてきた。兄の航太だ。タクシーの運転手が後部座席のドアを開けて航二に料金を言う前に、航太がそこから長い腕をすっと伸ばしお札を何枚か置いた。そして、その腕を引きながら手前にいた航二の腕を強い力で掴むと、そのまま彼を引きずるようにして、マンションへと足早に向かった。航二はあまりに驚きすぎてされるがままになっている。兄の手はとても冷たく、薄い寝巻の下の航二の肌まで冷たくなった。それなのに、掴まれている肌の下は血液が逆流し、全ての細胞が暴走しているかのように熱くなった。  航二は後ろから兄を凝視する。少し癖がある黒髪。記憶の中の兄は航二よりはるかに背が高かったが、今はその差が殆どなくなっている。航二が最後に身長を測ったのは二年前、高校三年生の時の身体測定時で、たしか百八十一センチだったはずだ。航太は恐らくそれより少しだけ高いだろう。緩い寝巻の上にグレーのカーディガンを羽織った背中の広さは、八年前と同じ、広く逞しい兄の背中のままだった。  明るく清潔感のあるエントランスを抜け、エレベーターに乗って航太が十二階のボタンを押す。なおも掴まれている腕が焼けるように熱い。航二の右側に立つ兄をちらりと盗み見てみる。兄は少し上を向いてエレベーターの回数表示を睨みつけていた。久しぶりに見た兄は少しやつれていて、目の下の隈がとても目立っている。唇も荒れていた。食事はきちんと取っているのだろうか、睡眠時間は足りているのだろうか、部屋はきちんと清潔な状態になっているのだろうか―――。基本的に生活能力が低い兄の事を、心配のあまりつい、あれは大丈夫かこれは大丈夫かと思ってしまう。そのせいなのか、いつの間にかチラ見がガン見になっていたのだろう。一瞬だけ兄と目が合った。その瞬間、掴まれている腕を思い切り強く握られた。しかし、それはほんの一瞬だけだった。すぐに視線は正面へと戻り、それと同時に手の強さも和らいだ。  なんとも言えない空気に包まれた二人を乗せたエレベーターが十二階に到着し、航太はエレベーターの三つ隣のドアを開いた。航太に合わせて素早くスニーカーを脱ぐと、明かりが点いたままになっていたリビングへと連れていかれた。広さはおよそ八畳だろうか。部屋の中は航二の予想通りとても汚かった。ざっと見渡しただけでも、よくこれほど散らかせるなとある種の関心を抱いてしまう程の有り様だ。こんもりとした衣服の小山の下にはおそらくソファーがあるはずだが、残念なことにその姿は埋もれてしまっている。靴下やらタオルやらが床のいたる所に落ちていた。小山と小さなテレビの間に置かれたローテーブルの上には、分厚い医学書が何冊も積み重なって高い塔がいくつも築かれている。  航二が部屋の状態に呆気に取られていると、航太は航二の腕を掴んだまま彼の正面へと回り、もう一方の手も航二の腕を掴んだ。兄弟は久しぶりに真正面から相対した。まるで、お互いがお互いの瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えるくらい、二人は見つめ合った。ほぼ変わらない目線の高さ。昔に比べ顔つきが大人びて、さらに男らしさが増している。しかし、やはり頬はこけて、黒い隈が目立っている。暫くののち、航太のかさついた唇から硬い声が発せられた。 「怪我はないのか?」 「あ、うん。大丈夫」  航二は突然話しかけられたため驚いてしまい声が上ずってしまったが、相手は気にしていない様子である。それから「本当にどこも怪我していないんだな?火傷もないんだな?」と同じことを三度も聞いてきた。その度に航二は同じ返事をする。そんなやり取りがようやく終わると、航太は大きく息を吐いて、航二から両手を離して二歩後ろへと下がった。 「外寒かっただろ。風呂入るか?」 「あ、いや、大丈夫」  確かに外は寒かったが、タクシーの中は暖房が効いていて暖かかった。外で寒い思いをしたのは自分ではなくむしろ兄の方ではないのか。あの氷のような手の冷たさを思い出し、航二が口を開こうとする直前に兄が再び声をかけてきた。 「それならお前はもう寝ろ」  航太はそう言うと、航二を寝室へと案内した。 「俺はまだやることが残ってるからお前は気にせず休め。ベッド使っていいから。じゃあおやすみ」  そうして有無を言わさず航太を寝室に押し込んで扉を閉めた。航太は自分がベッドで寝たら兄はどこで寝るんだと思ったが、今この扉を開くのが怖かった。仕方なく、補聴器を外して、ぐしゃぐしゃの毛布が辛うじて引っかかっているベッドにもぐりこんだ。  慣れない事が続いて、本人も気が付かないうちに、身も心も緊張していたのだろう。懐かしい匂いに包まれて、航二はすぐに深い眠りに落ちていった。

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