2 / 4

久雨

 七瀬航太は航二の六つ上の兄で今年二十六歳になる。航二と違って、現役で今年から航二が通う大学の同学科に進学した。航太は要領がいいので留年せずにおそらくもう卒業しているだろう。しかし、兄が今何をしているのか航二は何も知らない。放任主義で基本的に息子たちのすることには何も干渉しない両親も知らないだろう。  そういえば航太は二,三年前に携帯電話の番号を変えたと母に連絡したらしい。航二のもとにはそんな連絡は一つもなかった。それどころかもう八年も兄と会話らしい会話をしていない。当然である。航二が小学校高学年に上がった頃から、何故か兄の航二への態度がおかしくなったからだ。  それまでは兄は所謂ブラコンと言っても過言ではない、むしろブラコンという言葉は兄のためにあると言っていいほど航二を溺愛していた。それなのに突然ブラコン兄が急変した。朝夕の小学校への送り迎えはなくなり、一緒にお風呂にも入らなくなり、寝るときも布団どころか部屋すらも別々にした。そして、航二とは目を合わせなくなり、会話すらなくなってしまった。当然、兄は航二と電話やメールというものをするはずがなく、航二がメールを送っても返信は一度も来なかった。電話などする勇気はなかった。そのため、航太が電話番号を変えた事も、航二は随分後になって偶然母から聞いて知ったのだ。  昔の事を思い出すと、兄にだけは頼りたくないと思ってしまう。まるで航二という存在そのものを拒否したかのような航太の態度は、幼い航二の心を仄暗い虚無感と哀しみ、そして燃えるような怒りと後悔で満たした。航二は生まれつき左耳の聴覚が著しく悪く、単純に聴力が低いだけでなく、音が真っ直ぐ伝わらずに歪んでしまうため明瞭に聞こえない。幸いなことに、右耳は左耳ほど酷くはないが、健聴者よりはよくない。左耳は補聴器で補っているため、音量のカバーはできているが、やはり音が歪んで伝わるため、左側から話しかけられると反応が鈍くなる。一対一や一対二なら読唇術で相手の言葉を汲み取り、会話を成立させる事も出来たが、複数相手になるとどうしても追い付けない。クラスメイトからは話に入ってこないノリの悪い奴、話しかけても反応がない、無視する奴などと言われ、いじめられることも多かった。そのせいで航二には友達がいなかった。  唯一航二と仲良くしてくれたのが兄の航太だけだった。航二の世界には兄しかいなかった。兄しかいらなかった。でも兄は違った。航二と航太は違う。兄は弟のように障害を持っていない。友達も多かった。彼女だっていた。航二のように二浪もしていない。同じ両親から生まれたのに何もかもが違う。こんな出来損ないの弟の相手をするのはうんざりだった、だから俺を捨てたのでは―――これまで何百回、何千回と自問自答した。  やっと弟から解放された兄を今頼っていいのだろうか。しかし、今この無一文宿無し状態を自力でどうにかできる財力も人脈も航二にはない。それに今は四月初めの深夜。寝巻一枚で長時間外にいるには寒すぎる。持ち物はスマフォと自分の身体の一部とも言える補聴器のみ。もうすぐ大学も始まるのにこんな状況では大学どころか明日を生きるのも難しい。これっきりだ。一生で一度だけ、これが最初で最後。そう決めて、寒さだけではなく震える指で兄の番号に電話をかける。  こんな夜中に兄は起きているだろうか。もし眠っているのにこんな時間に起こしては迷惑ではないのか。そもそも兄は自分を受け入れてくれるのだろうか。もし断られたら、もし電話にすら出てくれなかったら―――  変な汗で滑るスマフォを握り直して右耳にあてる。  ああ、どうしよう。どうも出来ないのにどうしようとしか考えられない。今電話を切っても兄の携帯電話には着信履歴が残る。しかし、兄は折り返してはくれないだろう。もうコール音鳴ってるし、今切ってこの後もう一度かけ直すなんて到底出来そうにない。そもそも兄は自分の番号を登録してくれているのだろうか。もしかしたら非通知からの着信表示になっているかもしれない。そしたら尚更出てくれないのではないか。  嫌な考えが頭の中をぐるぐると回る。長いコール音よりも大きく聞こえる自分の心臓の音がやけに遠くから聞こえた。  やはり駄目かと思ったその時、耳に心地よく響く声が電話越しに聞こえた。 『はい』  少しかすれた色っぽい声。恐らく寝起きなのだろう。こんな夜中に起こして申し訳ないとか、兄にかけた電話が初めて繋がった感動とか、様々な思いが疾風の如く駆け巡る。だが、何よりも心の底から深く思ったのは、およそ八年ぶりに兄の声が聴けた事に対する喜びだった。  先程まで遠くから聞こえていた自身の大きな鼓動が、今は耳元で聞こえる。

ともだちにシェアしよう!