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花標・1
漆黒の闇の中を駆け抜ける二つの人影。
背後から放たれる矢を巧みに避けて走るが、ついにそのうちの一本が足元を掠めた。
「辛夷!」
がくりと膝をついてしまい、振り返る相棒。
「連翹のところの隠密衆と見受ける、覚悟!」
「蔓、逃げろ…!」
追っ手が振り上げた白刃が闇の中でぎらりと光る。
振り下ろされる瞬間、飛びついてきた大きな身体もろとも崖の下へ。
男たちが口々になにかを叫ぶ。
息が止まるほどの衝撃に覆い被さる蔓の体温をぐっと抱き寄せたのを最後に、意識が途切れた。
***
目を覚ましたのは翌日。
すでに追っ手は消えており、蔓に抱き込まれていたオレは奇跡的に怪我もなかった。
しかしオレを庇って深傷を負った蔓は血濡れで、かろうじて屋敷に連れ帰った後も三日三晩眠ったまま、意識を取り戻さず。
そしてようやく目を覚ましたと思えば、すべてを忘れていた。
自分のことも、任務のことも、オレのことも。
「辛夷、どうだ具合は?」
「…はい」
呼び出された部屋に赴くと、御頭が煙管を咥えて寛いでいた。
眉の上に残る傷痕が印象に残るがっしりとした大男だ。はだけた着物の袷から盛り上がる胸筋が覗く。
「蔓だがな、医者の見立てでも記憶が戻るかわからないらしい」
御頭の言葉に無言で頷く。
「まったく、惜しいよなぁ」
御頭は蔓の能力を高く評価していただけに、その声には深い悔恨が滲む。しかし、ちらりとオレを見ると、気まずそうに無精髭だらけの顎を撫でた。
「命だけでも助かって良かった、と言いたいところだが、記憶をなくしていて逆によかったかもしれないな」
「…はい」
隠密衆といわれるオレたちは御館様直属の武装集団であり、公にはできない存在だ。そのため下手に役目を失えば、命すら狙われかねない。
「あの、御館様はなんと?」
「記憶がないのならば判断は任せると」
蔓の処遇は御館様の一存による。
いますぐ殺されるなんてことはなさそうで、ほっと胸を撫で下ろす。
「蔓ほどの者を失うのは手痛い。もう一度鍛え直そうかとも思うが、何も覚えてないのなら、どこか里から離れたところでやり直させてもいいのかと考えている」
「そう、ですか…」
「もちろん、誰か見張りの者をつけることになるだろうが」
御頭の言葉にこくりと首を縦に振る。
目覚めた後の蔓は別人のように穏やかに笑っていた。以前までの殺伐とした、刃物のような気配など微塵も感じさせずに。
「おまえはどうする?蔓とは恋仲だったんだろう?」
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