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第1話

 夜の繁華街。気乗りしない地回りの帰り道で、辰巳一意(たつみかずおき)は微かな怒鳴り声を聞いた。  普段であれば気にも留めないただの喧嘩。だが、何故かその時は妙に胸騒ぎを感じたのだ。  同行しているダークスーツの男たちに先に車へと戻っているよう言いつけて、辰巳はひとり声のした方へと足を向けた。  ――確かこっちの方だったよな…。  普通に歩いていたのなら通り過ぎるような細い路地の前を通った時だった。 「ああん? 利益なんて関係ねーんだよ! メンツ潰されて黙ってられっか」  若い男の声が聞こえて、辰巳は少しだけ来た道を戻ると、路地を覗き込んだ。  見える背中は三人。その奥に誰がいるのかは暗くて見えなかったが、まあ、大方こちらに背を向けている三人が怒声を上げている相手だろう。 「おい、そんなとこで何やってんだお前ら」  路地の入口などまったく気にした様子もない三人組に臆することもなく声をかけると、驚いたようにそいつらが振り返った。その時である。  本当に、それは一瞬の事だった。 「失礼」  そんな言葉が聞こえたと同時に、三人が地面に倒れ込む。何が起きたのかは、何となく想像がついた。  ――足払い…にしても、なげぇな脚…。普通一気に三人もなぎ倒すか?  思わず、内心で感心する。喧嘩など見慣れているが、さすがにここまで鮮やかな動きをするような人間はなかなかお目にかからない。  すると、倒れ込んだ男たちを軽く飛び越えて、奥からひとりの男が姿を現した。  薄暗い路地には不釣り合いな、けぶるような金色の髪。路地の入口に立つ辰巳のすぐ真横にやってきた男は、綺麗なブルーの瞳をしていた。  百八十八センチの長身と、それに見合った体躯の辰巳と並んでも見劣りしない大柄な男に驚き、そして先ほどの動きにも、どことなく納得してしまう。  笑いが、込み上げる。 「はははっ、お前、ずいぶん大胆だなぁ」 「キミが隙を作ってくれたお陰だよ」  そう言って金髪の男は微笑んだ。それはもう柔らかな笑顔で。 「助けてくれてありがとう。僕はフレデリック」 「辰巳だ。だが、まだ礼を言うのは早いらしいぜ?」 「だろうね」  フレデリックと名乗った男が出てきた路地では、ようやく男たちが立ち上がるところだった。  男たちの年の頃は二十歳か、もしかしたら未成年。二十七の辰巳から見れば、随分と若いようである。 「見たところちっとばかし元気が有り余った兄ちゃんってところだが、アンタ一体あいつらに何したんだ?」 「別に、困っている女性を助けただけだよ。逆恨みって怖いね」  たいして恐怖も感じていないような口振りでそういうと、フレデリックはひとつ肩を竦めて笑った。 「女を助けた?」 「ちょっと、酒場で絡まれてたから声を掛けたんだけどね。まあ、結果がこれって事さ」 「そりゃ、災難だったな」 「ホントに。見て見ぬ振りをする日本人は賢いってことが、よくわかったよ」  皮肉気に笑うフレデリックに、日本人である辰巳は苦笑を漏らすことしか出来なかった。ガシガシと頭を掻く。 「あー…まあ、こんな事になっちゃあ、皮肉の一つも言いたくなるか」 「ふふっ、冗談だよ。日本には、タツミのように優しい人も居るからね」 「ははっ、そりゃどーも」  取り敢えず、せっかく暇潰しに来たのだから相手をしてもらおうと、辰巳は険悪そうな若者たちと向き合った。  フランス人で、客船の乗務員をしているというフレデリックを、辰巳は行きつけの店へと誘った。  移動する車の中で少し話したところによれば、年齢は同じ二十七。勤務している客船が寄港した時に、たまにこうして出歩くのだという。  横浜から東京まで足を伸ばしたと聞いて、何か用事があったのではないかと聞いてみたが、あっさりと否定された。ただの気まぐれらしい。  辰巳の知人が経営しているその店は、個室になっていて気兼ねなく酒を飲むことが出来る。  個室といっても席は広く、男二人で酒を飲むには十分な広さがあった。それなのに、どうしたことか隣に座るフレデリックに、辰巳は違和感を感じた。  どうにも落ち着かない。 「それよりフレデリックよ」 「なに? フレッドでいいよ」 「じゃあフレッド」 「うん?」 「どうしてこんなに広いのに、お前はそんなすぐ横に座るんだか聞いていいか」  思わず、ストレートに聞いてしまうのは、辰巳の悪い癖だ。だが、フレデリックは嫌な顔をする事もなく首を傾げた。 「ダメだったかな?」 「いや、駄目っつーか、不自然だろ」 「そう?」 「あー…、外国人はこれが普通なのか?」  フランス人の距離感は、こんなものなのだろうかと思いつつ、辰巳はガシガシと頭を掻く。  隣でクスクスと笑うフレデリックに、辰巳は言った。 「とにかくフレッド。日本では普通は向かいに座るもんだ」 「どうして?」 「落ち着かねぇんだよ」  本音、だった。どうにも距離が近すぎて、落ち着かない。ただの本能としか言いようがないが、実際辰巳のそれが的を射ていた事は、すぐに証明されることになる。  グイッとフレデリックの肩を押しやって、どうにか距離を開ける。  男相手だというのに妙に意識してしまっている自分には呆れるが、シャツの上から腕を触ったりしてくるフレデリックが気になって仕方がない。  だが、どうやらそれは、相手にも伝わっていたらしい。 「意識しちゃって可愛いね、タツミ」 「なに言って……んっ!?」  反論しようとする言葉尻を、攫われる。  辰巳には、一瞬何が起こっているのか理解できなかった。驚くように目を見開けば、すぐ間近にフレデリックの碧い瞳が楽しそうにこちらを見ている。  それが、キスだという事にようやく気付いて、辰巳はフレデリックの肩を両手で掴んで押し返した。 「おっ、前なぁ! そういうのは冗談でもヤメろ」 「冗談じゃないって言ったら、シてもいいって事かな?」 「男同士でどうこうする趣味はねぇんだよ」  顔を見るのも恥ずかしくて、辰巳は袖口で口許を拭いながら立ち上がった。顔が、熱い。  見上げたフレデリックが問いかける。 「帰るかい?」 「便所」  ただ一言、そう言って辰巳は個室を出た。一瞬、そのまま帰ってやろうかとも思いはしたが、残念ながら上着は席に置いたままだ。  ――あの野郎いったい何考えてやがんだ…。男同士でキスだと? 俺を揶揄ってんのか?  別にトイレに行きたかった訳でもなかったが、勢いで化粧室へと入った辰巳は思わず洗面台に両手を突いて項垂れた。  鏡に映る自分は、どこからどう見ても男だ。そして、フレデリックも。  ガラスを隔てて睨みつけるその頬に、わずかに朱が挿しているのを見て、辰巳は舌打ちを響かせた。  ――ったく、何だってんだよいったい。らしくねぇな。  正直、色事には慣れ過ぎるほど慣れている。けれどそれは、あくまでも異性が相手だ。  同性に恋心など抱いたこともなければ、そんな感情を持った事など一度もない。もちろん躰の関係を持ちたいとも、思わない。  けれど、驚きはしたものの、嫌悪感は一切なかった。  ――気持ち悪いとは、思わねぇもんだな。  ただ、そう思うだけだった。  辰巳にとって”普通は”などという概念はない。自分がどう思うか。それがすべてだ。  まあ、だからといって、何もなかった事にできる訳でもなければ、男相手にキスやら何やらをする気にはなれないのだが。  化粧室を後にして席へと戻った辰巳は、フレデリックの向かい側に腰を下ろした。手を伸ばしてテーブルの反対側にあったグラスを持ち上げると、酒を煽る。 「怒らせちゃったかな…」 「普通なんて言葉は好きじゃねぇが、冗談にしては質が悪ぃだろ」 「冗談、かぁ…」  フレデリックが、どこか困ったような声で呟いたあとで身を乗り出してくる。 「じゃあ聞かせて欲しいんだけど、本気で僕がキミを想う事は許されるのかな?」  フレデリックの目は穏やかで、揶揄いの色など微塵も浮かんではいない。  それが、余計に厄介だ。 「男同士で恋愛するような趣味はないって、さっき言わなかったか?」 「本気でも、男同士じゃダメって事…か」 「別にアンタがそういう趣味でもどうこう言うつもりはねぇがな、俺を巻き込むな」 「仕方ないでしょ。好きになったのがタツミだったのに巻き込むなって言われても、僕にはどうしようもない」  引く気などさらさらないのだろう。フレデリックが仕方がないと言うのも、理解はできる。 「突然キスしたことは謝るよ。でも、僕は冗談でタツミを好きになった訳じゃない」 「会ったばかりで好きもクソもあるかよ」 「一目惚れだってあるだろう?」 「はぁん? じゃあアンタは俺に一目惚れしたとでも言うのかよ。ハッ、冗談だろう?」  笑い飛ばすように言い放った後でフレデリックの顔を見た辰巳は、思わず笑みを消した。  フレデリックの顔に、一切笑みはない。それどころか、どこか寂しそうな表情をしていて、本気なのだと思い知る。 「マジかよ……」  呟いた辰巳に、フレデリックは何も言わなかった。  言葉などなくとも辰巳が理解している事を信じて疑っていないその態度に、一瞬でも馬鹿にした態度をとった自分が嫌になる。  けれど、好きになったと言われても、今日会ったばかりで互いの事を何も知らない。  まして辰巳は家業が家業だ。おいそれと誰とでも仲良くできる訳ではない。 「あー…、なんだ、その…冗談だっつったのは悪かった。けどなぁ…俺もアンタもまったく互いの事を知らねぇ訳だろ」 「これから、知っていけばいいよ」 「それで、嫌いになる可能性だってあるんだぜ?」  目の前の男が、辰巳の家業を理解していないとは思わない。だが、その覚悟がどれ程のものであるかは、今の辰巳には分からなかった。  そんな辰巳の心などすべて見通しているかのように、フレデリックが静かに告げる。その顔は、とても穏やかなものだった。 「僕は、タツミが信じられると思ったから好きになった。それだけだよ」 「ったく、俺の気持ちは構わねえってツラぁしやがって…」  これ以上、言い合っているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。  どうせ相手に引く気がないのなら、何を言っても無駄なのだ。こちらから、完全に断ち切らない限りは。けれど、どうも辰巳はこのフレデリックという男が嫌いになれないらしい。  フレデリックの気持ちを受け入れられる気はしないが、もう少しこの男を知りたいと、そう思う。  辰巳は開き直るようにガシガシと頭を掻いて、にやりと口角を歪めてみせた。 「オトモダチからってので良けりゃ、付き合ってやるよ」  それ以上譲る気はないと、言下に言い放つ。  こうして、辰巳はフレデリックという友人(?)を得る事となった。  今後、その付き合いがどれ程続くのかを、この時の辰巳はまだ知らない。

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