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第11話
月日が経つのは、本当にあっという間なものだと辰巳は思う。空には今の辰巳の心境を現すかのような曇天が広がっている。
辰巳は、畳の上に転がる大きなスーツケースを忌々し気に見遣った。
そんな辰巳の視線に気付いたフレデリックが、柔らかく微笑む。
「不安かい? 辰巳」
「不安っつぅか、マジで世界一周させられるとは思ってなかったわ」
「ふふっ、だから言っただろう? 簡単に賭けていいのかい? って」
クスクスと笑うフレデリックは、もはや辰巳が墓穴を掘ることなどお見通しで賭けようなどと言い出したに違いない。
ごろりと、畳の上に転がって辰巳は言う。
「別に、お前が一緒なら何でもいいけどよ」
「ッ……」
さらっと辰巳の口から出る言葉はとても自然で、フレデリックは思わず息を詰める。
辰巳は、物凄く素直だ。そして、あまり深く考えずに思った事を口にする。
別にそれが悪い事とは思わないが、フレデリックとしては些かこそばゆいというか、照れくさいというか、恥ずかしいというか…。どうにも困惑してしまう。
立ち尽くしたままのフレデリックを訝し気に見上げ、辰巳が手招きする。
「いつまで立ってんだよ。早く膝貸せ膝」
「キミは本当に質が悪いよ、辰巳」
「あぁん? なんでだよ」
フレデリックが頭の下にその長い脚を潜り込ませると、ゴソゴソと座りを調整して満足そうに辰巳が目を眇めた。
長い指が、黒髪を弄ぶ。
「辰巳が時々、僕を殺しにくるからさ」
「ああ? 俺ぁお前に銃口向けられる事はあっても、向けた事はねぇよ」
「ふふっ、そうじゃないよ辰巳。精神的に…かな」
辰巳は、自分が放つ言葉の持つ破壊力をきっと理解していない。それは、昔からだ。
『お前と一緒なら何でもいい』など、殺し文句以外の何物でもないというのに。当人だけが気付いていないから質が悪い。
そしてそれを説明したら、辰巳は顔を真っ赤にするのだ。
「はぁん? 意味わかんねぇな」
「墓穴を掘りたいって言うなら、教えてあげるよ?」
「あー…遠慮しとくわ…」
心底ゲンナリしたように吐き捨てる辰巳に、フレデリックはクスリと笑う。そして何かを思い出したように上着の内ポケットに手を差し入れた。
抜き出したフレデリックの手には、一封の封筒が摘ままれている。
「そう言えば辰巳。キミにこれをあげるよ」
「ああ? なんだそりゃ」
見ればわかる。と、そう言って差し出された封筒を受け取ると、辰巳は中身を抜き出した。
顔の上に掲げたまま文面を読んで、口許を歪める。
「フレッド。お前も大概質が悪いじゃねぇかよ」
「何を言うんだい? 僕はただ、キミとデートがしたいだけだよ」
「はぁん? まあいいや、そういう事にしておいてやるよ」
フレデリックが辰巳に差し出したのは、ある画廊が開催するレセプションパーティーの招待状だった。
辰巳が乗る客船が出発する前日に開催されるパーティーの会場は、横浜。
パーティーの主催である画廊のオーナーは、先日のオークションを開催していた主催と同一の人物。
そして、Special Guestと書かれた欄には、隼人の名前がある。
「お前は…本当に揉め事が好きだな」
辰巳の言葉を否定することもなく、フレデリックは朗らかに笑った。
「そういう辰巳こそ、どうしてトラブルが起きるって決めつけてるのかな?」
「あぁん? あの女の後ろ暗さは有名だろうが。それと、男好きな」
「おやおや、その口振りだともしかして辰巳…」
フレデリックが何を言おうとしているのかが分かって、辰巳は金色の頭をペシッと引っ叩いた。
「下世話な想像してんじゃねぇよ」
「僕としては気になるなぁ…。浮気は許さないよ?」
すい…と眇められるフレデリックの目は、とてつもなく冷たい。だが、辰巳にはそれが頗る色っぽく感じてしまうのだ。
「おいフレッド。その目はヤメろって、言わなかったか?」
「僕にこうして見られて、欲情するのは辰巳くらいだよ」
「はぁん? 分かってんなら脱げコラ。たまには、抱いてやるよ」
まさしくあっという間という表現が相応しい程、辰巳とフレデリックはあっさりと服を脱ぎ捨てた。本当に、この二人には羞恥心などという言葉はないらしい。
部屋の中央にある一枚板の大きなテーブルに座った辰巳の中心を口に含みながら、フレデリックは自身の手で後孔を解す。
辰巳は、それを面白そうに眺めて煙草を吹かしながら金糸の髪を指先で弄んでいた。
「相変わらず、お前は口でするのが上手ぇな」
「っふ……、は…辰巳も、シてみるかい?」
顔をあげて微笑むフレデリックに、案の定辰巳は渋い顔を見せた。だが。
少しだけ考える素振りを見せて、辰巳が口にしたのは意外な言葉で。
「どうしてもお前がシて欲しいってんなら、考えてやらなくもねぇがな」
後ろに回していた手を引き抜いて、フレデリックは畳の上にぺたりと座り込んで辰巳を見上げる。
「驚いたなぁ…まさか辰巳がそんな事を言うなんて…」
「されてぇのかよ?」
口許を歪めて嗤う辰巳の表情はどこか愉しそうで、フレデリックは思わずそのままの姿勢で固まってしまった。
辰巳の長い脚がゆるりと持ち上がり、フレデリックの肩を蹴る。
あまりにも乱暴極まりない辰巳の仕草に苦笑を漏らしつつ、意図を察したフレデリックは半信半疑ながら畳の上に仰向けに寝転がった。
邪魔になったテーブルを辰巳は足で退かせると、フレデリックの足元に膝をつく。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、見せつけるように辰巳の唇はフレデリックの雄芯を飲み込んだ。
「ッ、は…ぁ、嘘…だろう…?」
目の前にある信じられない光景に思わずフレデリックの口から言葉が零れ落ちて、伏せられていた辰巳の視線が上がる。
黒く闇を湛えた瞳が、フレデリックを射抜く。それは、肉食獣の壮絶な色気を纏っていた。
雄芯を食んだ唇が嗤うように歪められたかと思うと、口腔で舌が蠢く。
フレデリックの硬く勃ち上がった質量を辰巳はいとも容易く飲み込んで、喉の奥で締め上げた。
「ふっ…く、はっ…、いい…っ辰巳……ッ」
フレデリックの長い指先が畳に食い込んで小さな音を立てる。その様子に、辰巳はふっ…と嗤って本格的な捕食にかかった。
同じ男である以上、どこをどうすればいいかなど考える必要もない。口腔で屹立を煽りながら、辰巳はフレデリックの後ろの蕾を指で割り開いた。
ぐるりと内壁を掻き回すと、媚肉が蠢いて辰巳の武骨な指を締め付ける。同時に口に含んだそれがびくりと跳ねて、どこが気持ちいいのかがすぐに知れた。
フレデリックのそれを口に含んだまま、辰巳が嗤う。
「はあっ…あッ、辰…巳…っ、辰巳ッ、そ…もうっ、我慢……できなっ…ッ」
顔のすぐ横にある内腿がぐっと締まり、綺麗な筋肉の筋が浮き上がった。
「ひあ…ッ、あっ、も…ッ、イッ、――…くッ、ァ、ッッ」
フレデリックが全身を強張らせるのと同時に熱い液体が口の中に放たれて、さすがに辰巳は噎せそうになる。
すぐさま頭を上げて口に含んでいたそれを放した辰巳は不満の声を上げた。
「っぶねぇなおま…」
辰巳の声が、途切れる。
フレデリックは中途半端に達してしまった自身の屹立に長い指を自ら絡め、辰巳を誘うように足を開いてみせた。
「辰…巳……、お願い…そのまま、挿れて…」
「お前の色気には、敵わねぇなッ」
「ッ――…!! っふ、…熱…ぃ」
一息で突き入れられた剛直に背を撓らせたフレデリックは、辰巳の首を空いている腕で引き寄せる。
「っふ…、気持ち…いいよ…辰巳。ナカ、が…いっぱい…だ」
「本当にお前は、煽るのが上手い」
「キス…したい」
唇を合わせて互いの口腔を舌でまさぐり、唾液を交換する。
「はっ、ふ…っ、僕の…味がするね…」
「誰が出していいって言ったよ?」
「ふふっ、…ごめん」
正直なところ、フレデリックとしてはまさか自分が辰巳に口でイかされるとは思ってもいなかった。まあ、その前に口でされるとも思っていなかったのだけれど。
女にさえ口でしたことがない辰巳が、上手いなどと思う訳がない。多少油断していたとはいえ、あっさりイかされて些か参っている。
険しい顔をしている辰巳の首を引き寄せて、フレデリックは自ら腰を揺らめかせた。
◇ ◆ ◇
フレデリックが普段キャプテンをつとめる大型客船は、昨夜横浜港に予定通り入港した。
出航は明日だが、辰巳とフレデリックは先に代理でキャプテンを務めている男に挨拶をし、荷物を運び入れたところである。といっても、実際に動いていたのは辰巳のところの若い衆だったが。
日本を発ってもフランスに直行する訳でもなく、随分と長い船旅になるため荷物もそこそこある。
普通であれば船の中で衣類などは調達することも可能だったが、如何せん辰巳もフレデリックも躰が大きい。ラフな服はどうにかなっても、スーツは全てフルオーダーで、すぐに用意することが出来ないのだ。
クリーニングに回すとしても、十数着のスーツと、正装。それ以外の衣類だけでも、二人分となればあっという間にクロゼットがいっぱいになる。
辰巳がフレデリックと共にフランスへ行くために用意されていた部屋は、前回辰巳が押さえていた部屋などよりも遥かにグレードが高かった。
名実ともに豪華客船と言われているだけの事はあって、その部屋は普通のホテルのスイートルームと大差がない。
辰巳が船上で過ごすためのすべての作業は、若い衆が済ませていった。
ようやく人心地ついた室内で、辰巳はソファに座り込んだ。
「あー…マジでめんどくせぇ。こういう手間があっから旅行は嫌なんだよ…」
「辰巳は車でここに来ただけじゃないか…」
「あれこれ人が動いてんの見るだけで面倒なんだよ」
運転手付きの車で横浜までやってきて、荷物の一つも手を触れることなく今に至る。
それでも面倒だなどと言う辰巳の言い草に、さすがのフレデリックも呆れかえるしかない。
備え付けのカウンターでフレデリックが飲み物を用意していると、胸元で携帯が着信を告げた。フレデリックが辰巳を見る。
あまり、フレデリックの電話にいい思い出がない事を気にしてでもいるのだろうか。そう考えて辰巳は苦笑を漏らした。
「出ろよ。何も気にする事はねぇだろ」
「Bonjour」
辰巳の言葉に小さく頷いて話し始めたフレデリックは、フランス語だった。
――こいつの場合は日本語以外を話してる方が新鮮だな。
聞いていても辰巳にはフランス語の会話の内容など理解できない。
母国語を話すフレデリックの姿をぼんやり眺めながら、昼飯は何を食おうなどと思っていると、あっという間に電話は終わってしまった。通話を終えたフレデリックが、何やら楽しそうに飲み物を運んでくる。
「何か良い知らせでもあったのか?」
「うーん…、良い知らせというか、トラブル?」
「はぁん? またお前は…」
「僕じゃないよ。隼人…というか、甲斐?」
フレデリックは何が起きているのだろうと楽しそうに笑う。
「隼人がパーティー会場に居ないみたいなんだよねぇ…。せっかく行ったのに会えなかったって友人がお冠でね」
「会場にいない?」
「うん。まあ、それだけの話らしいけど」
今のところはね。と、そう言って、辰巳の隣に腰を下ろしたフレデリックは隼人の携帯を呼び出した。
「おかしいなぁ。電波が入ってない」
「あぁん? 連絡が取れねぇって事かよ」
「うーん…。実は僕、前に一度隼人の契約書を見たことがあるんだけど、連絡が取れないって事は絶対に有り得ないんだよね。あるとしたら、それはもう契約違反になるはずなんだ」
フレデリックの言う隼人の契約書というのは、隼人をモデルとして使う場合の契約書の事だ。それによれば、スマートフォンの電波の入らない場所へは、移動すら禁止されているのだという。
「まあいいや。甲斐に電話して聞いてみよう」
「何か楽しそうだなお前」
呆れたように呟く辰巳を気にする事もなく、フレデリックは甲斐と話し始めてしまった。しかもご丁寧に辰巳にも聞こえるようにスピーカーに設定してある。
「やあ、甲斐。何やら困ってるって聞いたけど、大丈夫かい?」
『耳が早いな』
甲斐が耳が早いと言った時点で、それは肯定を意味していた。
「だって、横浜なんでしょ? 例の彼女のパーティー。辰巳も一緒なんだけど、デートがてら覗いてきてあげようかなって思ってね」
「何がデートだよ、ったく。おい甲斐。隼人からはまだ連絡がないんだな?」
『ああ』
「だったら俺らが先に様子を見てきてやる。横浜に着いたらまた連絡しろ」
『それは有り難いが、招待状はどうするつもりだ?』
甲斐の言葉に、フレデリックが楽しそうに笑う。
「甲斐、僕を誰だと思っているんだい? 彼女は、僕の船で何をしてると思ってるの」
『なるほど』
「じゃあ、先に様子は見ておくから気を付けておいでよ、甲斐」
そう言って電話を切ったフレデリックは、デートに行こうと言って立ち上がった。その顔は、物凄く楽しそうである。
フレデリックを見上げ、辰巳が呆れたように言った。
「やっぱり、お前の電話が鳴るとロクな事がねぇな」
数時間後。どうやら大きな騒ぎにならず無事隼人も戻り、甲斐を見送った辰巳とフレデリックは、散歩がてら中華街で夕食を食べた。
目にも賑やかな通りを二人でゆっくり歩きながら、つい食べ過ぎてしまったと辰巳が腹をさすっていれば、後ろから人がぶつかってきて思わずよろける。
「おあ?」
「辰巳、スリ」
「あぁ?」
言うが早いか走り出したフレデリックを追いながら胸元に手を遣ると、確かに財布がない。
まさか日本を出る前日にまでトラブルに巻き込まれるなど思ってもいなかった。が、財布をそのまま持って行かれる訳にはいかなかった。
中に、大事なものが入っている。
辰巳の財布を奪うなど、正直言ってスリの方が気の毒な話である。案の定、あっという間に小柄な男はフレデリックにその襟首を掴まれた。
そのまま片手で持ち上げられてバタバタと足をばたつかせる男の方がむしろ痛々しい。
「ッ放せ!!」
「人の物を盗むのは、犯罪だよ? お兄さん」
言いながら、フレデリックはひと気のない路地へとそのまま入り込んだ。
「オイオイ、釣り上げてやるなよ。可哀相じゃねぇか」
すぐさま追いついた辰巳は男の目の前に回り込んでその顔を覗き込むと、無言で手を差し出した。
さすがに勝ち目もないと悟ったのか、男の手が辰巳の手に財布を差し出す。
「食い過ぎたっつーのに走らせんじゃねぇよこのタコ」
そう言って辰巳は男の頭を引っ叩くと、財布の中身を確認する。どうやら中身を抜く余裕すらなくフレデリックに捕まったようだ。
無くなっているものがない事を確認して、相変わらず足をバタつかせる男に辰巳がにやりと嗤ってみせる。
「さて。どうされたい?」
「こうすんだよッ!」
覗き込んでいた辰巳の顔を目がけて、男が腕を振り上げる。その手には、バタフライナイフが握られていた。
あっさりと躱しながらその手を掴んで、辰巳が挑発的に嗤う。
「はぁん。危ねぇなあ、こんなモン持ち出すなよ。逃がしてやれなくなんだろぅが」
「テメェ…」
「もう少し、相手を選んでお仕事するんだったね、お兄さん。よりにもよってこの人の財布をスった上に斬りつけるなんて…僕が許さないよ?」
クスクスとフレデリックは声を上げて笑うと、そのまま後ろから男の首に空いた手を回して徐々に力を入れていく。
「このまま、絞め殺されたいかい?」
「ッ…やれるもんならやってみろよ……」
「強がりはやめといた方がいいぜ? 本当に、そいつは遣りかねねぇからよ」
辰巳が言う間にも、フレデリックの手が男の首を締め上げていく。さすがに本気で殺そうなどとは思っていないが、結構ギリギリまで楽しむ気のフレデリックに容赦はなかった。
というより、辰巳の財布の中に入っている大事なものは、フレデリックにとっても大事で、誰にも見せたくない。知らずとはいえど、それを盗んだ罪は重い。
「命乞いをするなら、声が出るうちにした方がいい」
「カハ…ッ、…ッッ」
「ああ…もう、遅いかな? ごめんね、早く言ってあげなくて」
楽しそうに笑いながら首を絞められる恐怖は、どんなものだろうか。と、ふと辰巳は考えて少しだけゾッとする。
「そうだなぁ…その手のナイフを放したら、少しだけ時間をあげようか」
男の耳元に、フレデリックが低く囁く。その間も、フレデリックの手は徐々に首を締め上げていた。
安っぽい音を立てて、ナイフが地面に落ちる。それを辰巳の足が無造作に蹴り飛ばした。
「いい子だね。ご褒美に少しだけ時間をあげよう」
「ッ助…け……て」
「助けて欲しいって。どうする?」
「二度としねぇってんなら、いいんじゃねぇか?」
言いながら、辰巳は苦笑を漏らす。ヤクザなどという家業の自分がスリ相手に二度とするななど、滑稽にも程がある。
フレデリックの顔にもまた、同じような笑みが浮かんでいて、二人は思わず笑い声をあげた。
どさりと、男の躰が地面に落ちる。両手をついて空気を貪る男の前に、辰巳がしゃがみ込んだ。
「ヤクザの財布スるなんざ、いい度胸してんなぁオイ」
「ヤク…ザ…?」
「ああ」
さっと、男の顔から血の気が引いていく。その顔を、立ち上がった辰巳は躊躇いなく蹴り飛ばした。
派手な音をたててゴミの山に転がる男を見ることもなく、辰巳は踵を返す。その姿に困ったように微笑んで、フレデリックは辰巳の後を追った。
路地から出て並んで歩く二人は、既に何事もなかったかのような顔をしている。
「辰巳に蹴られたら痛いだろうなぁ…可哀相に…」
「ああ? 俺の大事なもん盗んであれで済ましてやったんだ、感謝されてぇもんだなぁ」
「ごもっとも」
それから、船へと戻った二人はいつものように隣り合って座り酒を飲んだ。
辰巳が大事にしているものが財布に入っているのは、フレデリックも知っていた。というより、正確には最近知ったのだが。
一度辰巳の手でくしゃくしゃに握り潰されたそれは、もう随分と長い事財布の中に入れられてしっかり大事に皴を伸ばされている、一枚のカード。
辰巳がカードを引っ張り出したあの日。ほんの僅かな間だけそうしていようと思って目を閉じたはずが、うっかりそのまま寝こけて起こしに来たフレデリックに発見されてしまったのだ。
「あれを辰巳が十一年も持ってるとは思ってもみなかったけどね」
「悪ぃかよ」
「まさか。嬉しいに決まってるじゃないか。おでこに乗せて寝てるんだもんなぁ…どれだけキミは可愛いんだい」
嬉しそうに言いながら腰に纏わりつくフレデリックを、辰巳は諦めたように見下ろす。
見つかってしまったものは、今更どうしようもない。かといって、捨てる気にもなれるはずがなかった。
「はぁー…もう勘弁してくれよフレッド。あん時の事は忘れろ」
困ったようにガシガシと頭を掻く辰巳を見上げてフレデリックはにこりと微笑むと、上体を起こして口付ける。
「Je t'aime, Tatsumi」
さらりと、フレデリックの口から発せられたフランス語を、辰巳は瞬時に理解することが出来なかった。
数秒の後に、ようやく何を言われたのかを理解して赤面する。
「フレッド……本当に…勘弁してくれ…」
額に手を遣って項垂れる辰巳は、だがどこか嬉しそうだった。
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