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第10話

 港を離れる大きな船を辰巳が見上げれば、小さな人影が制帽を手に軽く一度だけ腕を振るのが見えた。白い制服に身を包んだその男がフレデリックである事は、顔が見えずとも分かる。  辰巳は火の点いた煙草を持つ手を一度上げて返事をすると、その先に広がる海をぼんやりと眺めた。  不意に、今ここで自分が海に飛び込んだならフレデリックも飛び込んでくれるだろうか。などと云うどうしようもなくくだらない想像をして、苦笑を漏らす。  実行せずとも、答えは知っている。それでいい。  ――こうして見送った事も、そういやなかったな。  誰かを見送るというのは、こう妙な寂寥感がどうしてもつき纏う。それが辰巳は苦手だ。  辰巳がフレデリックを横浜まで送ってくることは、あまりない。いつも何かしら仕事が入ってしまって、若い衆に車を出させることがほとんどだ。たまに時間があって送ってきたとしても、フレデリックが船に入ってしまえばそれまでだった。  この数日見た船の中で働いているフレデリックは、辰巳から見ても惚れ惚れするほど男前だった。初めてフレデリックの船を見た時に、制服が似合いそうだと思った辰巳の想像はしっかりと的を射ていた訳である。  相手の事を知っていくというのは、案外楽しいものだと辰巳は初めて知った。  随分とんでもない男を好きになってしまったとは思うが、それは辰巳にしてもあまり変わりがない。フレデリックのような相手がちょうどいい。  ゆっくりと遠ざかっていく船をもう一度眺めて、辰巳は踵を返した。迎えの車に乗り込んで、シートに深く背を預ける。  次にフレデリックと会えるのは、三か月後だ。  随分長い間会う事ができないものだと不意に思ってしまって、辰巳は思わず口許を押さえた。車酔いをした訳では、もちろんない。 「どうかしましたか若?」 「ッ、何でもねぇよ。黙って運転してろ」 「はい。失礼しました」  ――何を考えてんだ俺は…。  顔が、火照る。  ズルズルとシートの上を滑って、辰巳は後部座席に倒れた。ごろっと仰向けになって長い脚を靴のままドアにゴツリと乗せる。  行儀の悪さを咎める者はいない。腕を頭の下に差し込んで、辰巳はくつくつと喉の奥で嗤った。  ――悪くねぇな。  と、そう思う。  不意に、携帯電話が鳴動して笑いが込み上げる。発信者の名前を見なくとも、それがフレデリックからの電話であると、何故か確信があった。  そのままの態勢で辰巳は胸から携帯を抜き出して、パチンッと指先で開く。  液晶に浮き上がる『Frederic』という文字に、辰巳は豪快な笑い声をあげて通話ボタンを押した。 「ッ…よう、フレッド。もう寂しくなったのか?」 『え? あ、うん? 何か楽しそうだね、辰巳?』 「ああ、そうだな。ちょっとな」  辰巳の台詞に、電話の向こうでフレデリックが小さくふむ、と束の間黙る。 『わかった。僕の事でも考えてたのかな?』 「ああ」 『え…?』  冗談のつもりででも言ったのだろうフレデリックが、辰巳の短い肯定に絶句する。その様子に、辰巳はククッと喉を鳴らして嗤った。 「お前に、会いてぇなって思ってた。今さっき別れたばかり、なのになぁ…」 『え? 辰巳…が? 嘘……だろう…?』 「おいおい、嘘はねぇんじゃねぇか? フレッドよ。あぁん?」 『ちょっと…辰巳……、それは…狡いよ…』  電話の向こうで情けない声を上げるフレデリックに、辰巳は笑い声をあげる。  目を閉じなくても、辰巳にはフレデリックが今、どんな顔をしているのかが分かった。 「顔が真っ赤だぞ、フレッド」 『本当にキミって男は…意地が悪い』 「ハハッ、お前ほどじゃねぇよ」  耳に流れ込む奇妙な呻きを聞きながら、辰巳は楽しそうに笑った。   ◇   ◆   ◇  二週間後。それは、唐突に訪れた。  何やら家の中が騒々しいと思いながらも、付き合いで朝まで飲んでいて寝入ってから一時間ほどの辰巳はそのまま布団の中で寝返りを打った。だが。 「辰巳! 起きて!!」 「んー…っだようるせぇな…ぁ…あ?」  辰巳の私室。奥座敷の襖をスパンッと勢いよく開けたのは、フレデリックその人で…。  フレデリックはすたすたと辰巳の横に膝をつくと当然のように唇を奪う。 「っぅ…んっ、は…ぁ、っと待て…ッ! なんでお前が日本に居やがる!?」 「辰巳が別れ際にあんな事を言うから戻ってきたんじゃないか」 「あぁん!? 真顔で馬鹿な事言ってんじゃねぇよ」 「まあ、それは冗談だけどね。辰巳に伝えておかなきゃならない事が出来たから来たんだよ」  電話では駄目だったのだろうかと、至極尤もな疑問を辰巳は抱いた。だが、既に本人が目の前にいる訳で、今更そんな事を言っても無駄な事だというのは理解していた。  布団の上に胡坐をかいた辰巳の前に、フレデリックが正座する。 「何だよ、言っておかなきゃならねぇ事ってのはよ」 「うん。実は…船に乗る事が少なくなりそうなんだ…」 「あん? それがどうした…って、そりゃ日本に来れねぇとかそういう話か?」  何やら深刻そうなフレデリックの様子に、辰巳がガシガシと頭を掻く。 「そういう訳ではないんだけれど…」 「ああ? 何だよはっきり言いやがれ」 「実は――……」  数分後、辰巳組の本宅には若頭の絶叫が響き渡った。  何事かと駆けつける若い衆を追い払い、辰巳がガクリと畳の上に両手をつく。  その目の前で口を開くフレデリックは、つい今しがたまでの深刻そうな様子はどこへやら、物凄く嬉しそうだった。 「と、いう訳で辰巳には僕と一緒にフランスまで出向いてもらう事になるから宜しくね」  にこりと微笑むフレデリックの顔が、今までにない程嬉しそうで辰巳は唇を戦慄かせた。 「辰巳も仕事があるだろうし、出発は次に船が日本に来た時にしておいたよ。それまでに諸々の準備を済ませて欲しい。ああ、匡成には僕の方から旅行に連れて行くと話をしてあるから」  フレデリックの話はこうである。  辰巳に素性を明かした事で少々問題が起きている。ついては本人を連れてこいと上層部が言っているから一緒にフランスに来て欲しい。と、そういう事らしい。  辰巳に拒否権は、もちろんないらしい。いやむしろ異論もない…のだが、些か急すぎてさすがの辰巳も思考が追いついていなかった。  ついでに言うなら、今後フレデリックの勤務地が日本に移るのだという。どうやら今の船舶会社の支社で講師になるらしい。  ――どうしてこうコイツはいつも突拍子もない事を言いやがる…。  いつまでも項垂れたままの辰巳の肩を、フレデリックが掴んだ。覗き込むように揺すられて、辰巳は目の前にあるブルーの瞳を見つめる。 「大丈夫かい?」 「お前は本当に…心臓に悪ぃ男だな」 「はっきり言えって言ったのは辰巳だろう?」  はぁー…と、溜め息を吐いて、辰巳はごろりと布団の上に横になった。そのまま、目を閉じる。 「辰巳?」 「話はわかった」  そう一言だけを告げて、辰巳はあっという間に寝息をたて始めてしまった。  取り残されたフレデリックは、もちろん辰巳の隣に潜り込んだ。その際、しっかりと自身の服を脱ぎ捨てた事は、言うまでもない。  数時間後。再び辰巳が目を覚ますと、視界一杯に金糸の髪が映り込んだ。  フレデリックがやってきた事を忘れていた訳ではなかったが、さすがに目を開けたらすぐそこに頭があるなどとは思っていないだけに驚く。  ――あー…マジか…。  八つ当たりだとは分かっていてもなお、無性にフレデリックの頭を引っ叩いてやりたくなる辰巳である。  堪えるように一度拳を硬く握り、辰巳は上体を起こした。胸の上に乗っているフレデリックの頭など知った事ではない。  そのまま布団に落ちてしまえという辰巳の願いも虚しく、フレデリックは不満に満ちた声を上げた。 「酷いなぁ、辰巳。一言かけてから起きてくれてもいいだろう?」 「ハッ、知るか」 「せっかく一緒にいられるっていうのに何が不満なんだい?」 「ああ? お前も出発まで日本にいんのかよ?」  もちろん。と、さらりと答えてフレデリックが微笑む。  辰巳は思わず額に手を遣って天井を見上げた。 「つぅかよ、お前は仕事放り出して平気なのかよ」 「僕の仕事?」 「おいこら、てめぇは船乗りだろうが?」  以前も匡成に足止めを食らって数ヵ月日本に滞在していたフレデリックだが、今は役職もあの頃とは変わっている。  そう簡単に大型客船のキャプテンというのは、仕事に穴を空けられるものなのだろうかと辰巳は不安になるのだ。  もちろん、常識的に考えてそんな事が罷り通るはずなどない。だが、フレデリックがこうしてここに居る意味は、辰巳も薄々勘付いていた。 「会社の大元が…まぁ、ほら…、ね?」  ね? などと茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったフレデリックに言われてしまえば、辰巳には何も言い返す事など出来なかった。  最初から規模が違うと分かっていたのに、改めてこう目の前に突きつけられてしまうと何も知らなければ良かったと僅かばかりの後悔が辰巳の胸を過ぎる。  ――とんでもねぇもん拾っちまったなこりゃ…。  既に十年以上もそんな男と付き合っておいて今更にも程があるとは思うが、辰巳の心持はまだフレデリックとの事は始まったばかりだった。  まあ、ある意味それはそれで確かに間違ってはいない事ではあったが。  大袈裟に溜め息を吐いて、辰巳は立ち上がると廊下に声をかける。若い衆からの返事に、飯、と簡潔に告げた後でフレデリックを見下ろす。フレデリックは小さく頷いた。 「部屋で食うから二人分持って来い」 「はい。只今お持ちします」  何もない広い座敷が、今日からまた少しだけ狭くなる。辰巳が定位置の座椅子に座れば、当たり前のようにフレデリックはその隣に腰を下ろした。

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