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第9話

 辰巳が一人の男を伴って部屋のドアを開けると、ソファに座り込む甲斐の姿が目に入った。隣には、どこか困ったような顔をしたフレデリックが床に膝をついている。  お家騒動の誘拐事件以降も付き合いが続いている甲斐は、二十五歳になっていた。辰巳が守ってやる必要もない程成長して、今では企業グループを背負って立つ若き帝王だ。  まあ、性格と口調は相変わらずのままではあるのだが…。いや、むしろ拍車がかかった部分がある事も否定できない。  今回ある仕事を甲斐に頼まれて出張ってきている辰巳ではあるが、少々気掛かりがあってお節介を焼くことにした。付き合いも長くなれば情も湧くと言うものである。  辰巳への依頼は、オークションへ代理人として行って欲しいという内容のものだった。  わざわざ頼む必要もなく自分で行けと一度断った辰巳だが、内容を聞いて受ける事にしたのである。  甲斐が欲しいと言ったのは美術品や絵画などではなく、人間だった。  あるジュエリーデザイナーが、どういう訳かオークションにかけられるという。それを、競り落とせと言うのである。  甲斐と出会ってからこちら、辰巳は何度か甲斐の依頼で仕事をする事もあったが、さすがに人間を買ってこいというのは初めてだ。  父親からその地位を受け継いでからの甲斐は、正直辰巳のようなただのヤクザ風情がおいそれと近付ける立場にはない。  けれど、公私を含めての付き合いは今なお続いているし、こうして仕事をする事もある。  その内容のほとんどは、表向きあまり綺麗とは言い難い仕事ではあったが、辰巳の家業を考えれば当然とも言えた。  ともあれ、本来であれば辰巳ひとりでオークションに参加する筈だったものが、訳あって甲斐も会場に来る事になってしまったのだ。  どれだけ態度が尊大であろうと、どれほど口が達者で強気だろうと、甲斐のそれが今なお無理をして作られていることを、本人でさえ知らずとも辰巳は知っている。  人身売買などというロクでもない裏の世界を目の当たりにした甲斐がどうなるか、辰巳にはおおよその見当がついていた。  その為に、辰巳は男を一人連れてきたのである。  安芸隼人(あきはやと)。恐ろしく整った容貌をしたこの男の職業は、トップモデルにしてホスト。フレデリックが甲斐の番犬と呼ぶに相応しく、この男の世界は全てが甲斐を中心に回っている。甲斐の恋人だ。  辰巳とフレデリックの仲を知って男をパートナーに選んだ訳でもなかろうが、辰巳は僅かばかりの責任を感じてしまう。  フレデリックはといえばまったく気にした様子もないどころか、随分と男前になった甲斐を口説き、その際嫉妬した隼人に首筋にナイフを突き付けられるという始末だから手に負えない。  それ以降隼人は甲斐の番犬という事で、辰巳とフレデリックの中では認知されている。  客船の船内と言う事もあってさして広くはない部屋を大股で横切り、辰巳は項垂れる甲斐の頭をくしゃりと撫でた。予想通りべっこりと凹んだ様子の甲斐に苦笑が漏れる。  見上げて名前を呼ぼうとするフレデリックを視線で制して、辰巳は仕事の報告を甲斐に告げた。 「甲斐よ。神谷は後で送り届ける。それと、コイツを借りてくぞ」 「ああ」  空返事を寄越す甲斐を気にすることなく、ついでのようにフレデリックを連れていく旨を話して、辰巳は恋人の腕を引いた。あとは、隼人が甲斐をどうにかするだろう。これ以上、辰巳が甲斐にしてやれる事はない。  廊下に出たところで、歩きながらフレデリックが口を開く。  時折り挨拶をしながら擦れ違うクルーに微笑みを返すフレデリックは、この客船のキャプテンという職に、今はついている。 「いつの間に隼人を連れてきたんだい?」 「ちょっと前に人を遣って連れてこさせた。甲斐は、綺麗な世界しか知らねぇだろうからな。人身売買なんぞ目の当たりにしちゃあ、そりゃべっこり凹むだろうよ」 「相変わらず、辰巳は甲斐に優しいね」 「あぁん? 嫉妬はすんなよ。お前の嫉妬は心臓に悪ぃからな」  もう十年近く前になるだろうか、フレデリックの嫉妬の怖さを辰巳は身をもって知った。  恋人に名前すら呼んでもらえない挙句に血溜まりの中で銃口を突き付けられるなど、辰巳は二度と御免である。  現在三十八歳になった辰巳とフレデリックの付き合いは、何だかんだと言って随分続いている気がする。 「辰巳が僕を信じてくれる限り、僕は誰にも嫉妬しないよ」 「あぁそうかよ。お前は裏がありすぎて、信用すんのも一苦労だがな」  吐き捨てるように辰巳が言っても、フレデリックは朗らかに笑うだけだ。こんなところは、出会った頃と何も変わらない。  付き合いが長くなっても、辰巳がフレデリックに関して知っている事は少ない。この客船のキャプテンであるという事と、名前と誕生日くらいのものだ。  どこの国に住んでいるのかも知らなければ、学歴や経歴なども一切知らないし、聞こうとも思わなかった。  ただ、その長い付き合いの中で、甲斐の誘拐に関する九年前の一件については未だに辰巳の中で消化できていないことがいくつかある。  本人に聞いたところで、もうだいぶ昔の話だし覚えていないと言われるか適当に誤魔化されるのがオチだろうと諦めてはいるが、甲斐と仕事で絡む度に、辰巳はどうしても思い出してしまうのだ。  薄暗い廃ビルの中に残されていた血痕は相当で、それなのに死体もなければ人影もなかったあの異様な空間は、正直今思い出しても背筋に悪寒が走る。  まるでホラーゲームの世界がそのまま現実に再現されてしまったような光景を、辰巳は未だ忘れることが出来ずにいた。  ――聞いてみるか…?  そんな昔の事を掘り返すことに何の意味がある。と、そう思いはするが、十年近くも忘れられずにいるのも事実だった。  甲斐の顔を見る度に思い出してしまうのも、辰巳にとってはうんざりする。  何が出てくるのか、それともただ誤魔化されて終わるのかは分からないが、いつまでもうじうじ悩むのは辰巳の性に合わない。  聞くだけ聞いて無駄ならそれはそれで諦めようと心に決めたのだった。  部屋に入り、上着を脱ぎながら辰巳はフレデリックに予定を聞いた。  甲斐の依頼とフレデリックの仕事の都合で、船が横浜に停泊している間この客室を辰巳は押さえている。  あとの仕事は若い衆に任せておいて問題ない為、辰巳の仕事はこれで終わりだ。 「そういやフレッド、お前仕事はどうなってる」 「今日はもう何もないよ。明日は、残念ながら朝から仕事だけどね」  フレデリックの返答に、ふむ…と頷いて辰巳は携帯を取り出す。二か所ほど電話を掛ける辰巳を、フレデリックは面白そうに眺めていた。  電話を済ませた辰巳の肩に、フレデリックがしな垂れかかる。 「本当に、辰巳はどれだけ優しいんだい? いくら僕が他人に嫉妬しないって言っても、さすがに妬いてしまうよ?」  辰巳が電話をしたのは、甲斐の家と、自分のところの若い衆だ。  今夜はもう甲斐と隼人が船で寝てしまうだろう事を見越して、着替えを用意させたのである。 「あぁん? 俺が退屈で船を下りてもいいってんなら、断ってやるよ」 「それは駄目だよ、辰巳。僕の楽しみを奪うつもりかい?」 「ハッ、どうせお前は俺が来なくても勝手に来るだろぅが」  言いながらも辰巳はフレデリックの船が日本に寄港する時は、余程外せない用事がない限り横浜まで迎えにやってくる。それは、恋人になるよりも前からの事だ。  辰巳は一言フレデリックに断りを入れて、酒を飲み始める。フレデリックは、船の上では絶対に酒を飲まない。  だからといって別に断りを入れる必要はないのだが、辰巳は案外律儀なのである。 「今頃、あの二人は何してるかな」 「さあ、寝てんじゃねぇか?」 「そうかなぁ。というか、甲斐と隼人はどっちがネコなんだろうね?」 「おめぇはどうしてそう下世話な想像をしやがる」  呆れたような目でフレデリックを見やって、辰巳は酒を煽った。 「賭けをしないかい?」 「あぁん? 何のだよ」 「今夜、彼らがエッチをするかどうか」  クスクスと楽しそうに笑うフレデリックに、辰巳は内心で甲斐と隼人を哀れんだ。  この男に目を付けられると、これだから手に負えない。 「お前は、どっちだと思うよ?」 「しない…かなぁ」 「それじゃあ賭けになんねぇだろうが」  辰巳は今しがた、二人は寝てると言ったのだ。両方同じ方に張ったのでは賭けにならない。  ガシガシと辰巳は頭を掻く。 「ったく、だったら仕方ねぇから俺が、するって方に張ってやるよ」 「ふふっ、辰巳は優しいね。でも、良いのかい? そんな簡単に賭けて」 「はぁん? お前が言い出したんだろうが。で、いったい何を賭けるんだ?」  そうだなぁ…、と、つかの間考え込んだフレデリックは、とんでもない事を言ってきた。 「もし僕が勝ったら、一度でいいからこの船で辰巳と一緒に世界一周旅行がしたい」 「はあ?」 「辰巳と毎日一緒に居られるなんて最高じゃないか」  想像でもしているかのように嬉しそうに話すフレデリックに、辰巳が頭を抱える。  確かにこの船は街ひとつを移植したかのような規模を誇る客船だが、そこに数ヵ月も居られるかと言われたら、辰巳は自信がない。  それが例えフレデリックと毎日会える代償だったとしても。  額を押さえながら呟く辰巳の声は、弱々しい。 「どうしてお前はそう、いつも突拍子もない事を言い出しやがるんだ…」 「やっぱり駄目か…。残念だなぁ」 「つぅかよ、お前は仕事があるからいいかも知れねぇが、俺が暇で死んじまうよ」  数日だけでも船の中に籠るというのは結構しんどいと、現在既に思っている辰巳である。  溜め息と共に暇で死んでしまうと訴えたものの、フレデリックからの返事は思わぬ方向から飛んで来る事となった。 「何を言ってるんだい辰巳。僕も一緒に旅行を満喫するに決まってるじゃないか。暇なんて言わせないよ?」 「あぁ?」  そんな事が理由なら賭けは成立だと喜ぶフレデリックの横で、辰巳は何も言い返すことが出来なかった。完全に嵌められたとしか思えない。 「僕はこの船でって言っただけで、僕が仕事をするなんて一言も言ってないよ。相変わらず辰巳は早とちりが多いね。…と言うか、むしろ自分から墓穴を掘るところ、昔から本当に変わらないね」  さらりと言い放つフレデリックに、学習能力がないと言われているようで悔しい。悔しいのだが、辰巳には返す言葉もない。 「悪かったな、成長してなくてよ」 「キミは本当に可愛いね、僕の子猫ちゃん♪」  そう言ってフレデリックは、辰巳が何かを言うよりも早くその唇を塞いでしまう。こうなってしまっては、辰巳がフレデリックに敵うはずなどなかった。  惚れた相手に煽られて、欲情しない男などいない。辰巳もフレデリックも、お互い自ら服を脱いでしまう。そこに色気など必要なかった。  あっという間に曝け出された二人の躰は、齢を重ねど引き締まったままだ。  フレデリックの長い指が、辰巳の胸を滑り、腹筋を辿る。 「ねえ辰巳。今日は、どんな声で啼いてくれるんだい?」 「知るか阿呆。俺は、お前を啼かせてやってもいいんだぜ?」 「そうだねぇ…僕を優しく舐めてくれるなら、考えてあげるよ子猫ちゃん。舐められると気持ちが良いのは、カズオキもよく知ってるだろう?」  どこをなどと言わずとも、辰巳が口での奉仕を一切しない事をフレデリックはよく知っている。その上で煽るような事を言ってくるのだから、本当に質が悪い男である。  嫌そうに顔を顰める辰巳を気にする事もなく、フレデリックは辰巳をベッドの上に這わせた。  ひたりと、蕾を舐め上げる。さして時間をかけずとも綻ぶことを覚えた襞に、指を飲み込ませて舌で縁を辿る。 「ぁ、…ッく」 「カズオキのここ、気持ち良さそうにヒクついてるの、わかるかい?」 「言う…ッじゃ、ねぇよ…馬鹿」  フレデリックに言われなくとも、自分の躰がどこをどうされたら気持ち良くなるのかを辰巳は知っている。  たまに辰巳がフレデリックを抱く事もあるが、それよりも抱かれる方が気持ちが良いから始末に負えないのだ。  気持ち良ければ何でもいい。辰巳にはそれだけだ。  フレデリックの方はどうやらそう単純でもなさそうだが、お互い利害が一致しているようなのでこの二人には何の問題もなかった。  後ろから覆いかぶさるように圧し掛かるフレデリックの剛直を飲み込まされて、辰巳は自ら寝台に顔を埋めた。  痺れるような快感が爪先から頭上まで突き抜けて、思わずあげそうになる嬌声を堪える。 「ッ…、ふッ、……ぅっ」 「カズオキのナカは、凄く気持ちが良い、よ」  自身を引き出すと攣られて生々しく捲れ上がる襞を指先で辿りながらフレデリックが言えば、ぐっと絞るように辰巳の腰が引き締まった。誘うようにナカの媚肉が蠢いて、蕾が収縮する。  早く動けと急かすような動きに、フレデリックはうっとりと吐息を漏らして一気に根元まで剛直を埋め込んだ。 「ッアァ――…ッッ、は…、ッイイ…、もっ…と、寄…越せ…」 「なら、今日は遠慮なく、泣き叫んでもらおうか。…ね、カズオキ?」  名を呼び、ニヤリと悪辣に嗤うフレデリックに、辰巳はもちろん気付かない。  望む以上の快楽と逸楽を与えられ、フレデリックの宣言通りの痴態を辰巳は曝す事となった。そしてこの日、辰巳は初めてフレデリックに懇願の言葉を吐く羽目に陥ったのである。  ――あー…マジで俺、アイツに犯り殺されんじゃねぇかな…。  乱れたなどという言葉では足りない程に乱れまくった寝台の上に突っ伏して、辰巳はシャワーの音を遠くに聞いていた。  精液やら唾液やらでベタつく躰を流したいとは思うが、立ち上がるだけの体力も残っていない現実に辰巳は思わず真顔になる。  体力的にも肉体的にも精神的にも、辰巳はその辺の男よりも勝っている自信がある。確かにそれは事実でもあったが、フレデリックはその上を行く。  はぁ…と、辰巳は小さな溜め息を吐いた。  上体を持ち上げ、支える腕が震えて苦笑が漏れる。床に足を下ろすと、冷たさが素足に心地よかった。 「入るぞ」  声をかけて扉を開くと、たいして広くない浴室にフレデリックの引き締まった躰があった。自分の躰に満足している辰巳でさえ、思わず嫉妬してしまいそうな躰だ。  立ったまま髪を洗いながらフレデリックが問いかける。 「大丈夫かい?」 「ああ」  過剰な気遣いを含まない問いかけに応えて、辰巳は目の前にあるフレデリックの背に手を伸ばした。  武骨な指で背骨に沿った窪みを辿る。 「ッ、…辰巳!?」 「あん?」 「どうしたんだい急に…」 「別に? 俺がお前の躰を触るのは、いけねぇのか?」  フレデリックが驚くのも無理はないと、辰巳自身も思う。  こうして辰巳がフレデリックの躰を触った事は、長い付き合いの中で一度としてない。 「いけなくはないけど…驚くだろう?」 「まあ、そうだな」  さっさと伸ばしていた腕を引っこめて、辰巳は壁に備え付けられたノズルから勢いよく降り注ぐシャワーの下に躰を置く。少し熱めの湯が全身を滑り落ちて気持ちが良い。  髪を流すフレデリックと場所を入れ替えながら、辰巳は口を開いた。 「フレッドよ」 「うん?」 「お前に聞きてぇ事がある」 「何だい? 急に改まって」  湯が張られていない浴槽の縁に腰を下ろして躰を洗いながら話す辰巳を、フレデリックがちらりと振り返った。 「聞くか聞かねぇか迷ってたんだがな、甲斐の顔を見る度に思い出しちまってどうしようもねぇからよ」  それだけで、フレデリックには辰巳が何を聞こうとしているのかが分かってしまった。 「なるほど。わかったよ」 「蒸し返して悪ぃな」 「構わないよ。ただ、シャワーを上がってからでいいかい?」 「ああ」  躰を洗い終えた辰巳の髪を、フレデリックの手が丁寧に洗う。どことなく重い沈黙が、二人の間に流れていた。  先に浴室を出たフレデリックの手によって、寝台の上には新しいシーツが掛けられていた。  糊が効いて肌触りの良いそこに辰巳は腰を下ろすと、煙草に火を点ける。メインの照明が落とされ、間接照明だけが照らす薄暗い部屋に薄く紫煙が漂う。  テーブルを挟んでクッションの置かれたソファに座るフレデリックが、先に口を開いた。 「もしかして辰巳は、この九年間ずっと気にしていたのかい?」 「別にいつもって訳じゃねぇよ。ただ、甲斐の顔を見ると思い出す事があるだけだ」  ふむ…と、小さく頷いたフレデリックが、碧い瞳で辰巳を見る。 「お前よ、あん時俺が着く二時間くれぇ前にはもう、ビルに居たって言ったよな」 「そうだね」 「あそこで、何があった?」 「直球だなぁ」  クスクスと笑うフレデリックの手が、テーブルに置かれた辰巳の煙草に伸びる。 「一本、貰っていいかい?」 「お前、煙草吸うのか…」 「そうだね。僕は辰巳の事を知っているけれど、辰巳は、僕の事を何も知らない。それは僕のせいだ」  そろそろ本当の事を話そうか。と、囁くように言うフレデリックの顔を、ライターの火がぼんやりと明るく照らす。  その表情は薄暗い部屋では、とても物悲しく辰巳には見えた。 「僕が知人からの電話で甲斐が攫われたのを知ったのは、キミも聞いてたね?」 「あん時の電話か」 「そう。あの電話の前から…というか、最初から甲斐を狙っているグループは、二つあったんだよ。ひとつは、匡成が割り出してくれた、龍一のところと繋がりのある相手。もうひとつは、もっと違う、犯罪組織に依頼をしてた」  甲斐が辰巳の家に泊まった翌朝には、フレデリックはもう一組の情報を掴んでいたという。 「犯罪組織の連中は正直、日本のヤクザがどうこうできる相手じゃない。それは、キミも知っているね? 辰巳」 「だから、俺に何も言わなかったってのか?」 「そうだね。それに、時間もなかったし…。あの時、匡成は同業者以上が出てきたら自分たちは手を引くと言ったね。だから、犯罪組織が出てくる前に龍一たちの方を排除するので手一杯だったんだよ。その後は、どちらにせよ匡成の手に負える相手じゃないし、無駄だと思って言わなかっただけ」  甲斐を狙うグループが他にあると知ったら、辰巳は甲斐を迎えの車に乗せなかっただろう。それは確かだ。だからと言って、辰巳ひとりにどうにかできるものでもない。  だからフレデリックは辰巳に何も言わず、甲斐が辰巳の家を出る前に腕時計を渡したのだと、そう言った。 「親父からの電話の時か…?」 「そうだよ。同時に、僕は知人に頼んで甲斐の車を追ってもらった。もし、その知人ひとりの手でどうにかなるようなら、その時に甲斐を助けるように頼んでいたし、手に負えないなら攫われた後も追ってもらえるように頼んであったんだ」 「それであのタイミングで電話が鳴ったって事かよ…」  呻くように呟く辰巳の表情は苦い。  その様子に苦笑を漏らして、フレデリックは煙草を消した。つられて、辰巳も指の間で短くなったそれを揉み消す。 「そう。でも、ごめんね辰巳。本当の事を言えば、あの時辰巳が僕を疑うように仕向けたのは僕だよ。辰巳が言った通り電話のタイミングもそうだし、その後も…ね」 「あぁ? それは初耳だぞオイ」  思わず語気が荒くなる辰巳に、フレデリックが困ったように額を人差し指で掻く。 「うーん…、言わなきゃ…駄目かい?」 「当たり前だろぅが。きっちり説明しやがれ」  はい。と、神妙に返事をしてフレデリックは白状した。 「辰巳はどちらかというと直情型だし、あの時キミが言った通り、少し脅迫めいた言い方をしたら余計に怪しんでくれると…思ってた…ごめんなさい」 「ああそうだな。俺はまんまとそれに引っ掛かったってこった」 「でも、あの時僕が言った言葉に嘘はないし、もし信じてくれてたなら一緒に甲斐を助けに行こうと思ってた」  フレデリックの言葉は、嘘だ。  辰巳が信用したとしても、あの時フレデリックが辰巳を一緒に連れていく事はなかっただろう。フレデリックは、辰巳に危ない思いをさせたくない。  龍一の方をさっさと片付けさせたのも、匡成が手を引く前になどという理由ではなかった。  犯罪組織の連中が辰巳の家を襲撃する前にどうにか甲斐を他の場所に移してしまいたかっただけの事だ。  正直、辰巳の家は、安全とは言えない。確かに常に複数の人間が詰めているが、逆にそれは、国際的な犯罪組織に狙われたら無駄に死人が増えるというだけの事である。  あの時、もし辰巳がフレデリックを信用していたとしても、フレデリックはそのまま辰巳の首を締め落としてひとりで出て行っただろう。  例えその後で、辰巳に不信感を抱かれる事になったとしても。辰巳を危険な目に遭わせるよりはいい。  それが、フレデリックの真実である。  辰巳には、言えないけれど。 「それで? 俺がいなくなった後、お前はどこで何をしてた」 「場所を聞いて甲斐の様子を見に行った。元々甲斐は交渉の道具だし、殺される心配はなかったけれど、知人から聞いた相手の規模が少し大きくて、自分の目で確かめたかったんだ」 「確かめるってお前…」  辰巳の言葉に、フレデリックが少しだけ悲しそうに微笑んだ。だが、その表情は一瞬だけで、すぐに消えてしまう。 「辰巳が来る前にあのビルに居たのは十人くらいだよ。中華系の、所謂チャイニーズマフィアだね。それと、甲斐」 「それがどうしてあんな事になる」 「僕が、殺した。…って言ったら、キミは信じるかい? 辰巳」  どこか挑発的な視線でフレデリックに問われ、辰巳は思わず息を詰めた。  ガシガシと頭を掻いて、辰巳は煙草に火を点ける。 「俺はよ、フレッド。真実が知りたいんであって、謎かけがしてぇんじゃねぇよ。それと、そういう目で見んな。襲いたくなる」 「ふふっ、あれだけ泣き叫んでおいて、まだ足りないのかい?」 「そこに喰い付くんじゃねぇよ馬鹿。本気で殴られてぇのか?」 「そうだね。冗談はこれくらいにしておこうか。時間もあまりないし」  そう言ってフレデリックは時計を見ると、辰巳の手から煙草を奪い去って煙を吸い込んだ。 「僕が全部殺したよ。死体を運び出したのは掃除屋だけどね。本当は何もないところに甲斐を運んでから辰巳を呼ぶこともできたけど、あの時の僕は、少し投遣りだったから…」  フレデリックが投遣りだったという理由は、もちろん辰巳には分かる。疑われたからだろう。  だがしかし、十人ものチャイニーズマフィアを相手に、ひとりでどうにか出来るものだろうか…と、そう考えて辰巳は考えるのをやめた。  ――遣りかねない。  と、単純にそう思った。  可能か不可能かなど辰巳の感覚で考えても仕方がない。  フレデリックなら遣りかねない。ただ、そう思うだけだ。  あの時辰巳がフレデリックに抱いた恐怖心は、間違っていなかった。ただそれだけの事。  辰巳はフレデリックの手から煙草を奪い返すと、一口だけ吸い込んで揉み消した。煙を吐き出しながら問いかける。 「どうしてひとりで相手した」 「連中を相手にするのは、日本のヤクザは無理だから。…ああ、力関係が云々じゃなくて、警察に捕まってしまうから、という意味でね。それに、僕はキミを危ない目に遭わせたくないし、人を殺させたくもない」 「お前…」 「一番の理由は後者かな。別にキミがあそこで僕と一緒に人を殺したとしても、警察に捕まる事はなかったからね。これが、この九年間キミがずっと僕に聞きたかった事だろう?」  そう言って、フレデリックは妖艶に微笑んだ。  九年前、あれだけの血痕があったにも関わらず、その後あの廃ビルでの事がニュースになる事はなかった。  繋がりのある刑事にそれとなく話を振っても、何の反応もなかったのである。  フレデリックは、チャイニーズマフィアと遣り合った挙句に、それを全て揉み消してしまえる人間だという事だ。  そんな事が出来るのは、間違いなく真っ当な人間などではない。 「ねぇ…辰巳。それを知って、キミはどうするつもりだい? 知ってはいけない事を知って、ただで済まない事は、わかってるだろう?」 「ああ」 「本当に、キミは馬鹿だよ…辰巳」  呆れたような、どこか嬉しそうにも見えるフレデリックの顔を、辰巳は真っ直ぐ見つめた。 「馬鹿だろうが気になっちまったモノは仕方がねぇな。フレッド、お前は十一年前に俺を知りたいと言った。俺がお前を知りてぇと思うのは、いけねぇのかよ?」 「ッ……」 「答えろ。フレッド」  黒く澄んだ闇を湛える瞳がフレデリックの顔を映す。  この男は、いつでも真っ直ぐこうして自分を見る。そこには嘘も偽りも、飾りすらもない。  ――敵わないなぁ…。  こんな男に、自分が敵う訳がない。辰巳はフレデリックに敵わないとよく口にするけれど、本当は違う。フレデリックの方こそ、辰巳には敵わないのだ。  だってこの男は、全てを飲み込んでしまうのだから。  全部寄越せと言うその言葉の通り、フレデリックのすべてを辰巳は受け入れてしまうのだから。 「っ…本当に…キミって男は……どうしてそう、僕を夢中にさせてくれる…のかなぁ……」  黒く澄んだ瞳の中で、俯いた顔から雫が落ちる。  フレデリックが音もなく立ち上がると、ずっとクッションの影に潜り込んでいた左手が露わになった。その手に握られたオートマチックが、辰巳の黒い瞳に映る事はない。  辰巳はずっと、フレデリックの顔だけを、じっと見つめたままだ。 「知ってた…のかい…?」 「ああ」  短く、そう答える辰巳に、フレデリックは左手の人差し指に力を込めた。サプレッサーが装着されていてもなお破壊的な音を立てて、撃ち抜かれたクッションから羽が舞う。 「ッ危ねぇな。冗談でも撃つんじゃねぇよてめぇ、怖ぇだろうが」  これが、銃を持った人殺しを目の前にして言う台詞だろうかと、耳を疑いたくなる。けれど辰巳は、そういう男なのだ。 「辰巳。キミは本当に、真っ直ぐで惚れ惚れするよ」 「あぁん? 当たり前だろうが、殺されたっててめぇにだけは本音しか言わねぇよ、フレッド」  顰め面で吐き捨てる辰巳を、フレデリックが押し倒す。  その目にはもう涙の跡などどこにもなかったけれど、辰巳がフレデリックの泣き顔を忘れる事はないだろう。  小さな電子音を時計が告げて、フレデリックはらしくなく苛立ったように鋭い舌打ちを響かせた。それまで辰巳の首筋に食らいつくように埋めていた顔をあげて、大きく長い息を吐く。  腕の下で、辰巳があえかな吐息を漏らす。その僅かに開いた唇に口付けを落として、フレデリックは辰巳のナカからずるりと屹立を引き抜いた。 「っぅ…ぁ…」  小さく喘ぐ辰巳の髪をフレデリックは名残惜しそうにひと撫でして立ち上がると、そのまま浴室に入った。  手早くシャワーを浴びて、クロゼットから引っ張り出した真っ白な制服を身に纏う。 「今日ほど僕は病人か何かになりたいと思った事はない!」  今しがたまで辰巳を元気に組み敷いていたフレデリックが口にするには、些かならず呆れる台詞だが、まあ要は仕事に行きたくないのだろう。 「あぁ…? クッ、何だよそりゃ…ガキか…」 「クビになってもいいから辰巳と居たい…」 「これ以上…お前と一緒にいたら……俺の身がもたねぇよ、…阿呆」  午前四時。フレデリックの朝は早いのだ。  一部の隙もなく制服を身に着けたフレデリックを、辰巳は寝台に横になったまま見上げた。男前なその姿に、少しだけ、甘えてやるかと、そう思う。 「煙草、吸いてぇな」  辰巳をちらりと横目で見て、フレデリックがクスリと笑う。その顔はとても嬉しそうだった。  テーブルの上に放置された煙草をフレデリックは一本抜き出して咥えると、火を点けてから辰巳の唇に差し込んだ。旨そうに煙草をふかす辰巳に問いかける。 「辰巳、キミの部下が到着するのは何時だい?」 「九時」 「了解。その時間に、起こしに来るよ。それまでゆっくりおやすみ、僕の可愛い子猫ちゃん」 「ったく、本当にお前はよ…。行って来いよ、俺の可愛いゴシュジンサマ?」  そう言って煽っておきながら、思わず飛びつきそうなフレデリックを辰巳は煙草を持った手を差し出して牽制する。 「きっちり仕事して来い。俺は逃げやしねぇよ」  渋々といった態で部屋を出ていくフレデリックを見送って、辰巳は長い息を吐いて起き上がると、煙草を揉み消した。  床に散乱したクッションの残骸が視界に入る。昨夜、辰巳が浴室から出た時にはもう、フレデリックはそこに座っていた。  ――本当に、おっかねぇ男だよなぁ…。  音もなく立ち上がったフレデリックの左手に握られていたオートマチック。あれは、辰巳が浴室から出る時にはもうフレデリックの手の中にあった。  それは、辰巳も浴室を出た瞬間から気付いていた事だ。  俗にマフィアと呼ばれる組織には、沈黙の掟というものが存在する。匡成が以前、自分たちには知れない事だと言ったのはそれが理由だ。  時には血の掟とも呼ばれるそれは服従と沈黙を厳しく命じるもので、破れば凄惨な制裁を受けるという。  以前から、フレデリックの素性を聞けば、自分は殺されるかもしれないという恐怖はあった。  もしフレデリックが本当にマフィアだったとして素性を明かしてしまったら、その掟に背くことになる。もしくは、それを回避するために素性を明かした相手を消してしまうという方法もあるだろう。  だからこそ辰巳自身もフレデリックの素性については詮索しないようにしていたのだ。  それでも、知りたいと、辰巳はそう思ってしまった。 『僕は辰巳の事を知っているけれど、辰巳は、僕の事を何も知らない』  まったくもってその通りだった。そして自分は、それが嫌になったのだ。殺されるかもしれないと分かっていてもなお、フレデリックの事を知りたいと思った。  辰巳はフレデリックが何者でもよかった。それは事実だ。今更フレデリックがどんな人間であろうと失くしたくないという気持ちは変わらない。たとえそれが人を殺めた事がある人間だったとしても、辰巳の家業を考えれば気持ちの妨げになるものではなかった。  まあ、フレデリックの方は辰巳に人を殺めさせたくないと考えているようではあったが。所詮そんなものは綺麗事だ。  フレデリックに危害が及ぶとなれば辰巳は躊躇う事無くその相手を殺すだろう。 『本当に、キミは馬鹿だよ…辰巳』  フレデリックの言う通り、自分はきっと馬鹿なのだろう。それは辰巳自身も思う。だが、九年前のあの夜にも自分は逃げたのだ。”知る”事から。二度目は、ない。 『馬鹿だろうが気になっちまったモノは仕方がねぇな。フレッド、お前は十一年前に俺を知りたいと言った。俺がお前を知りてぇと思うのは、いけねぇのかよ?』  辰巳の言葉は紛れもない本心だ。けれど果たしてそれは、辰巳とフレデリック、どちらか片方の、あるいは両方の命を賭けてまで知る必要があっただろうか。  昨夜の、フレデリックの涙が脳裏を過ぎる。たった数粒だけ落とされた大粒の涙。そこに込められた想いは、どれほど重いのだろう。  辰巳には、フレデリックが流した涙の意味は分からない。だが、涙を流させたのは自分だという自覚だけはある。  嬉しかったのか…、あるいは怖かったのかもしれないと、そう思ったところで辰巳は何となく腑に落ちてしまった。  フレデリックは、不意に寂しそうな顔をする。それは、自分を受け入れてもらえない恐怖心からくるものかもしれない。  それは裏を返せば、嬉しいという事でもある。十一年前、辰巳がフレデリックに”知りたい”と言われて、嬉しかったように。  ――まあ、そのうち揶揄いがてら聞いてやるか。  辰巳は小さく嗤いながら腕を伸ばして脱ぎ捨てられた服から財布を抜き出すと、中から一枚の紙を摘まみ出して財布を放り投げる。  薄く皴の残る一枚のカード。辰巳はごろりと寝台に仰向けになってそこに記された文字を指先で辿る。  顔の前に持ち上げていたそれを額に乗せて、辰巳は静かにその目を閉じた。

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