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第8話
音もなく開いたドアの先に、フレデリックが立っていた。見慣れている筈のフレデリックの顔がまるで他人のように辰巳には思える。
にこりと微笑んで、フレデリックは辰巳を部屋へと招き入れた。
「甲斐は、無事送り届けてくれたかな?」
「ああ」
「そう。それなら良かった」
そう広くはない部屋に、ベッドと小さなテーブルにソファが二つ。作り付けの執務机がある部屋は、ごく普通のビジネスホテルと変わらない。
だが、その机の上には携帯電話の他に黒い鉄の塊が二つ、無造作に置かれていた。
自分の部屋よりも飾り気があるのに、辰巳には何故かこの部屋が酷く殺風景に見える。
辰巳が全身から力を抜くことが出来ないでいるのを見透かしたように、フレデリックが言った。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。僕は、キミに危害を加える気はない」
「そうかよ」
「座ったらどうだい?」
フレデリックが視線でソファを指して、辰巳はそこに腰を下ろした。
向かい合ったソファに、フレデリックが座る。
「さて。話をする前に、僕はキミに聞いておかなきゃならない事がある」
「奇遇だな。俺も、先に言っておかなきゃならねぇ事があるんだ」
辰巳の視線は、真っ直ぐフレデリックの目を見ていた。
「…聞こうか」
「甲斐が攫われた時、お前を疑って悪かった」
そう言って、辰巳はしっかりと頭を下げた。その頭上から、クスリとフレデリックの笑い声が聞こえる。
辰巳が怪訝そうに顔を上げると、フレデリックが困ったように笑っていた。
「参ったなぁ…。そう簡単に謝られるとは思ってなかったよ。本当に、キミは素直で、正直だ」
「素直だったら、あんな間違いは犯しちゃいねぇよ」
「素直だから、あの時キミは僕を疑ってると言ったんだろう? 嘘をついて、あしらう事も出来たはずなのに…ね」
クスクスと笑うフレデリックは、辰巳よりも辰巳のことを分かっているかのようだ。
何もかも見越されていて、辰巳は溜め息を吐くしかない。
「ところで、それを僕に謝ってキミはどうするつもりだい?」
「別に、どうもしやしねぇよ。俺が謝りたかっただけだ」
「本当にキミは面白いねぇ。普通は、許しを請う為に謝るものだろう?」
「謝って許される事ばかりじゃねぇんだろ」
辰巳らしくなくどこか投げやりな態度が何を示しているのかは、フレデリックには手に取るように分かる。
「キミは、僕が怒っていると思ってるのかい?」
「そうじゃなきゃあんな事はしねぇだろ」
「銃を、突きつけた事かな?」
ああ。と、短く返事をする辰巳の声は低い。
「怒らせたのは俺かも知れねぇが、あんな思いは二度としたくねぇな。怖くて謝る事すら出来やしねぇよ」
「謝る…つもりだったのかい?」
「当たり前だろぅが」
「そう…。キミには悪い事をしたね」
呟くように言うフレデリックを、辰巳は見ようともしなかった。ミシリと、辰巳の口の中で奥歯が音をたてる。
俯いて顔を上げる事もなく、辰巳が問う。
「なあフレッド。お前は、いつからあのビルに居た?」
「キミが来る、二時間程前から」
フレデリックの答えに、辰巳が小さく息を吐いた。
「煙草、吸っていいか」
「構わないよ」
フレデリックがテーブルの上の小さな灰皿を辰巳の前に押しやると、辰巳は上着の中に手を差し入れて煙草を取り出した。その仕草に、フレデリックが困ったように笑う。
いつもなら、辰巳は煙草を吸うのに断りなど入れない。それを入れた意味を、理解したからだ。
「そんなに、僕が怖いかい?」
「怖ぇよ」
あっさりと答える辰巳の声音は、さして怖がっているようには聞こえない。
「今のお前は、俺には別人に見えて仕方がねぇよ」
「僕を嫌いになったかい? …って、聞いても無駄かな。今のキミは、僕に本音を言えない」
「ハハッ、違いねぇな。今の俺が本音を言ったところで、お前に信じられる訳がねぇ」
たいして吸ってもいない煙草を揉み消して辰巳は立ち上がると、フレデリックが座るソファの肘掛けに片手を突いて、その首を引き寄せた。
されるがまま肩口に顔を埋めさせられたフレデリックの耳元に、辰巳が低く告げる。
「俺はな、フレッド。お前が思うほど肝が据わってる訳じゃねぇ。だがな、本音くらいは言えるんだぜ? それをお前が信じるか信じねぇかは、知った事じゃねぇがな」
「なら、言ってみればいい」
「本音が聞きたきゃ名前を呼べよフレッド。お前はいったい、誰と話をしてやがる」
「ッ……」
不意に腕を緩めた辰巳が、フレデリックの額に自分のそれを軽く当てた。ゴツリと、間近に碧い瞳を真っ直ぐ射貫く。
「フレッドよ。俺ん中から、お前を失くさせんなよ」
そう言って辰巳はソファに戻ると煙草に火を点けた。疲れたように、膝の上に肘を置いて項垂れる。
事実、辰巳は疲れ切っていた。一日に色々な事があり過ぎて、感情の処理も思考の整理も追いついてはいない。何よりも、目の前の男との喧嘩が神経をすり減らしている。
ひたすら名を呼ぶ事もなく、挙句銃口まで突き付けてくるような恋人だ。痴話喧嘩も程々にしておかないと、心臓に悪くて仕方がない。
――あー…、駄目だ。コイツ怒らせるとめんどくせぇ…。
二度と、嫉妬はさせまい。しみじみと、そう思う。
そして、そのまま辰巳は眠った。
辰巳の指から落ちそうになる火が点いたままの煙草を、フレデリックは長い指先で摘み上げると、そのまま自分の口許へと運んだ。
立ったまま深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
フレデリックは煙草を咥えたまま辰巳の躰を抱え上げると、ソファからベッドへと移す。無防備な辰巳の寝顔に、苦笑が漏れた。どの口が、怖いなどと言うのか…。
「辰巳…」
小さく、名前を呟く。ただそれだけでフレデリックは心の中から靄がすっ…と晴れるような気がした。
――少し、おイタが過ぎたかな…。明日、謝らなきゃね。
短くなった煙草を揉み消して、フレデリックは眠る辰巳の隣へと躰を滑り込ませた。ゴソゴソとごわつく慣れない服の感触に、小さく舌打ちをしたフレデリックが起き上がる。
余程疲れているのか、それとも安心しきっているのかは分からない。
動かしても起きる気配のない辰巳の躰から服を剥ぎ取ってソファへと放り投げると、フレデリックはさっさと自分も裸になって再びベッドに潜り込んだ。
いつもと変わらぬ辰巳の肌の感触に満足そうに微笑むと、フレデリックは静かに目を閉じた。
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