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第7話

 フレデリックの携帯電話が、着信を告げる。  珍しい事もあるものだと目を眇める辰巳の前で、フレデリックは通話を始めてしまった。 「はい。…そう。わかったよ、ありがとう」  穏やかな口調で交わされる会話は、日本語だった。 「そうだね。助かるよ。……うん。よろしく」  そう言ってフレデリックが携帯を閉じるのとほぼ同時に、今度は辰巳の携帯電話が鳴動した。  辰巳は思わずフレデリックの顔を見る。妙な、胸騒ぎがした。  発信者を確認すれば、つい三十分ほど前に別れたばかりの匡成からである。二、三、言葉を交わした辰巳の語気が、不意に強まった。 「あぁん!? どういう事だ。ケリ着いてんだろぅが!!」  辰巳はそれ以上言葉を発することなく、鋭い舌打ちを響かせて携帯を閉じた。  通話の切れた携帯電話を握ったまま辰巳が立ち上がるのを、フレデリックは驚いた様子もなく見上げる。 「匡成かい?」 「ああ。甲斐が、攫われたとよ」 「そう」 「随分落ち着いてんじゃねぇか」  至極冷静なフレデリックを、辰巳が見下ろす。その視線は、冷たい。 「フレッド、今の電話誰だ」 「知人、かな」 「言いたくはねぇんだが、タイミングが良すぎやしねぇか?」  座ったままのフレデリックの前に辰巳は膝をつくと、顎を指先で持ち上げる。  フレデリックは、視線を逸らすことなく辰巳を見つめた。ブルーの瞳には、何の感情も浮かんではいない。 「辰巳は、僕を疑ってるのかい?」 「疑うなって方が、無理な話だと思わねぇか。なぁ?」  ふぅ…と、小さく息を吐いたフレデリックが不意に辰巳の首を引き寄せる。  ピクリとも動かない程強く肩口に顔を埋めさせられた辰巳の耳元に、フレデリックの低い声が響いた。 「あまり僕に、嫉妬をさせない方がいい。僕はね…辰巳、キミが僕以外の何かを守ろうとするのは一向に構わない。だけど、その為にキミが僕を疑うのは…許せないよ」 「ッ……」 「もう一度聞こうか、辰巳。キミは僕を、疑ってるのかい?」  脅迫めいたフレデリックの声に、辰巳の全身が粟立つ。  一度離れようと躰に力を入れればクスクスと笑われるだけで、フレデリックの腕は全く動かなかった。 「逃がさないよ、辰巳。答えない限り、ずっとこのままだ」 「脅し…かよ…」 「違うよ。僕は、辰巳の答えが聞きたいだけだ」 「だったら、疑ってるって言えば離してくれんのかよ?」 「それが、キミの答えかい?」  ああ。と、辰巳は低く答えた。  フレデリックの腕が、ゆるりと下がる。  ようやく自由を取り戻した辰巳は、無言で部屋を出て行った。  広い和室にひとり取り残されたフレデリックが、小さく嗤う。  甲斐を乗せていた車の成れの果てを見て、辰巳は言葉を失った。  ノーズがベシャリと潰れ、フロントガラスだけでなくサイドやリアウィンドウにまで突き刺さった銃弾が生々しい。  運転手は、一命を取り留めて現在病院で治療中との事だった。意識を失う直前に、電話をしてきたという。  襲撃を受けたのは甲斐の家のすぐ目の前で、すぐさま車は敷地内に運び込まれたらしい。  人通りもなく目撃者もいないというから、相手も計算しての事だろうと匡成が言っていた。  割れた窓から後部座席を覗き込んでみたが、そこに血痕などはない。それだけが、唯一の救いだろうか。  車がこんな状態である以上、甲斐が無傷だとは思えないが、少なくとも車の中に血溜まりを作るほどの怪我は負っていない。  潰れた車の前に立ち尽くしたまま、辰巳は煙草に火を点けた。吐き出した紫煙が、夕闇に消えていく。  微かな音がして辰巳が振り返ると、匡成がこちらへ向かってくるところだった。  辰巳のすぐ横に立って、息子を見上げる。 「どう思う」 「岬の仕業じゃねぇだろ」 「だろうな」  何が出てくるか分からないと、匡成が言った言葉を思い出す。  隣に立って煙草をふかす父親を、辰巳は見る事もなく呟いた。 「手ぇ引くつもりか親父」 「引く気ならこんな場所にいねぇだろうが」 「それ聞いて安心したわ」 「ああ?」  訝し気に見上げてくる父親を、辰巳はようやく見下ろす。 「年取って気弱になられたんじゃ、つまんねぇからよ」 「今すぐ泣かしてやろうか?」 「後で、な」  そう言って、辰巳は車へと戻る。  運転席の若い衆に自宅へ戻るように告げて、辰巳は考え込んだ。  ――しかしまぁ、どうしたもんかね。探しようもねぇ。  甲斐の居場所に関する手がかりは、まったくと言っていい程なかった。監視カメラに映った車は盗難車で、乗り捨てられていたのを既に匡成が見つけている。  ただのヤクザが指紋から相手を割り出すなど不可能であったし、もとよりそんなものは残っていないだろうという思いもある。  組の連中を一応走らせてはいるが、相手が同業者とは思えない以上、期待は薄いだろう。  ガシガシと頭を掻く辰巳の脳裏に、ふと、フレデリックの事が頭を過ぎる。  ――アイツなら、こんな時に何か上手い事動きそうなもんだがな。  夕方の出来事を思い出す。  まったくと言っていいほど、フレデリックの電話は鳴る事がない。ほとんどが辰巳との遣り取りで、一緒に居る時に鳴る事など、数えるほどしかなかった。  それが、あのタイミングで鳴る意味は、何なのだろうか。  ”わかった” ”ありがとう” ”助かる” ”よろしく”。電話の相手にフレデリックが言っていた言葉を思い出してみても、辰巳には何も分からない。  分からないけれど、自分は何か間違いを犯してしまった気がする。 『辰巳は、僕を疑ってるのかい?』  フレデリックの言葉が、脳裏を過ぎる。 『あまり僕に、嫉妬をさせない方がいい。僕はね…辰巳、キミが僕以外の何かを守ろうとするのは一向に構わない。だけど、その為にキミが僕を疑うのは…許せないよ』  ――俺は、何を見失ってた? どうして、アイツの言葉をちゃんと聞いてやらなかった? フレッドは、最初から全部言ってたじゃねぇか…。  何かが、辰巳の頭の中で音をたてる。  ――悪いのは、俺だ。  と、その時。辰巳の携帯が短く鳴った。  携帯電話を開くと、メールが届いていた。差出人は、フレデリックだ。 「ッ……」  思わず、息が詰まる。  本文に記された文字は、短いものだった。 『時計』  たった二つの文字に、辰巳の視線は釘付けにされた。  謝らなければ――…。  車が停車するのを待たず、辰巳は後部座席のドアを開けて飛び降りた。 「若!?」 「そのまま待機してろ、すぐ出る」  勢い良く玄関を開け放ち、声を張る。 「フレッドはいるか!」 「若が出た後、お出掛けになりました」  予想していたとはいえ、若い衆の言葉に舌打ちが漏れる。  何事かと聞いてくる若い衆を無視して、辰巳は自室に直行した。テーブルの上に放置されたノートパソコンを引っ掴んで、すぐさま車へと引き返す。 「取り敢えず出せ」  パソコンの起動時間がとてつもなく長く感じる。やがて画面が明るくなって、辰巳はGPSを表示する為の地図を開いた。  赤い点が、地図の上で点滅を繰り返す。動いている様子がないところを見ると、時計が捨てられてさえいなければ甲斐かフレデリックがそこにいる。あるいは、両方か。  若い衆に住所を告げて、辰巳はフレデリックの携帯に発信した。  けれど、電波が入っていないという旨のメッセージが流れるだけで、呼び出し音が鳴る事はない。  一瞬、匡成にも連絡を入れておいた方が良いだろうかと思う。襲撃された車に突き刺さっていた銃弾の数は、相当なものだった。  だが、時計が捨てられている可能性も否定できない以上、確認した後でも遅くはないだろうと思い直す。  GPSの示す場所から離れたところで、辰巳は車を降りた。背中には、硬い感触がある。  さすがにあんな車を見てしまうと心もとないが、そうそう銃など用意はできない。一丁でも、持っているだけマシだろう。  赤い点滅が示していた場所は、頭に入れてある。あまり土地勘のない場所ではあったが、辰巳は迷うことなく目的地の近くまで移動を果たした。  ビジネス街のど真ん中にある、廃ビル。時間が時間とあって、人通りは少なかった。  と言っても、まったく人通りがない訳ではない。ずっと路地に立ち尽くしていれば、変に目立つような場所だ。  ビルの建つ敷地は、防塵用のシートで囲われている。中に入ってしまえば外からは見えないだろう。が、同様の理由により、今の辰巳の位置からは、中の様子がまったく把握できない。  ――まあ、考えるだけ無駄だわな。  人通りが途切れたのを見計らい、辰巳は敷地の中へと入り込んだ。いきなり銃撃されるような事態にも陥らず、思わず胸を撫で下ろす。  ビルの入り口にドアはなく、ぽっかりと黒い空間が口を開けている。  辰巳はゆっくりとした足取りで入り口へと移動すると、すぐ横の壁に背中をつけて中の様子に耳を澄ましてみた。物音ひとつ聞こえてこない。まるでそこに人などいないのではないかと思える。  ふと視線を下に落として、辰巳は思わず息を呑んだ。地面に、血痕が付いていた。  ゆっくりとしゃがみ込んで観察してみれば、乾ききっていない赤い跡が、そう長時間放置された訳ではない事が分かる。  だが、妙なのは血痕のつき方だった。それはまるで、ビルから外へ運び出されたように見える。  一瞬それが甲斐のものかもしれないと思ったが、あまり悪い事を考えるのは止そうと思い直す。だが、どうにも妙な事になっているのだけは、確かなようだ。  立ち上がった辰巳は、静かにビルの中に足を踏み入れた。人の気配もなければ物音もしない。  背中から鉄の塊を引き抜くと、セーフティーを解除した。だらりと下げた右手に重みがあるだけで、どことなく安心する。  ビルの中は、がらんとしていた。元はエントランスホールだったのだろう広い空間が広がっていた。床に割れたガラスが散乱していて、一歩足を踏み出しただけで小さな音をたてる。  ――これ、人いたら絶対バレんだろ…。  そう思ったところで辰巳は踏み出した足を戻して外に出ると、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。転がっているコンクリート片を持ち上げると、適当な方向に思い切り投げつける。  空間に、音が反響する。だが、それだけだった。人の声がする訳でもなければ、銃声もない。  大きく息を吐いて辰巳は立ち上がった。大股でホールを横切り、片っ端から部屋を覗き込んでいく。  そこは、明らかに異常な空間だった。血溜まりや血痕が腐るほどあるというのに、死体がひとつも転がっていない。誰かが運び出したとしか思えなかった。  しかも、そう過去の話でもない。大きな血溜まりに至っては、乾ききってすらいないのだ。  ――こりゃいったい何人ここに居たんだ? こんな場所は、テレビゲームの中だけで十分だぜまったく…。  上階に移動して三つめの部屋を覗き込んだ時、床に転がる人影を辰巳は発見した。  ちょうど顔の部分が割れた窓から差し込んだ月明りに照らされていて、すぐにそれが甲斐だと分かった。  部屋の中に足を踏み入れた瞬間、その光景に思わず辰巳の足が止まる。  通路とは比べ物にならない血液の量。さすがに切った張ったが得意でも、思わず吐き気が込み上げてくる。  こんな部屋からは、早く出た方がいい。そう、辰巳は思った。  血溜まりに、思わず躊躇する足をどうにか動かす。 「甲斐…おい、甲斐ッ」  名前を呼びながら頬を張ってみても、甲斐は何の反応も示さない。ふと思い出して甲斐の腕を見れば、フレデリックに渡した腕時計が嵌められていた。  思わず溜め息が漏れる。いつの間に、フレデリックは甲斐にこれを渡していたのか。  床に散っている血痕と血溜まりがいったい誰のものであるのか、辰巳にはわからなかった。ここで、何があったのかも。  あるいはフレデリックは何かを知っているような気もするが、残念ながらここに本人はいなかった。例えいたとしても、聞くだけ無駄なのは承知している。  ただ、甲斐の意識はないものの、呼吸はしっかりとしていた。それだけで、納得するしかない。  辰巳は携帯で車を回すように告げて甲斐の躰を肩に担ぎ上げると、入り口を振り返ったところで凍り付く。完全に油断していた。  人影が、入り口に立っている。  自分に向けて突き出されている手が何を握っているのかなど、考えなくとも理解できた。そして、それを向けているのが誰であるかも、辰巳は理解していた。 「フレッド……どう、して…」  それ以上の、言葉が出ない。  異常な空間と、何よりフレデリックの手によって銃口を向けられているという信じられない事実が、辰巳の思考を混乱させる。  どうしてそんなものを突き付けられているのか、理解が出来ない。  辰巳に疑われる事が、そんなにもフレデリックにとっては許しがたい事だったのか…。 「やあ。メールは、気付いてくれたみたいだね」  穏やかに言って、フレデリックがゆっくりと足を踏み出す。銃口は、辰巳に向けられたままだ。  辰巳が返事をする事も出来ずにいると、あっという間に背後に回り込んだフレデリックがクスクスと笑う。 「本当に、キミは可愛いね…」  月明りが作る影が、ずっと銃口が自分に向けられている事実を告げていた。 「そんなに怖がらなくてもいいだろう? 僕が、キミを本気で撃つと思うかい? それとも、僕に引鉄を引かせるような何かを、キミはしたのかな?」  ――怖い。  辰巳は、ただ立っていることしか出来なかった。  謝ろうと、そう思っていたのに、声を出す事すら儘ならない。 「車で、キミの部下が待っているだろうから手短に済ませようか」  そう言って、フレデリックはホテルの名前と部屋番号を辰巳に告げた。右手に握ったオートマチックを、フレデリックの手が取り上げる。 「それまで、これは預かっておくよ。心配しなくてもこのビルには僕たちしかいない。安心して、甲斐を送り届けておいで」  耳元に囁いて、首筋に口付けられる。トンッ…と、背中を押されて早く行くよう促され、辰巳は振り返る事なくビルを後にした。  乗り込んだ車の中で、辰巳は甲斐が無事であることを匡成に電話で告げた。甲斐の家にそのまま送り届けるように言われ、了承して電話を切る。  未だ目を覚ます気配のない甲斐を見つめて辰巳は小さく息を吐くと、シートに寄りかかって目を閉じる。フレデリックが安心して送り届けろと言った以上、甲斐を追いかけてくる人間はもういない筈だった。  酷く、疲れた。だが、辰巳にはもうひとつ、しなければならない事がある。  今夜は、長い夜になりそうだった。

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