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曖昧ワーク①
【スパイ、西海史スエキ、始動します】
「ちょっと!その指輪、何なのよ!」
すっかり、この女の存在を忘れていた。だが、好きなひとの左手薬指に指輪があったら誰でも同じことを言うだろう。一週間ぶりの再会なら尚更だ。例え、それが自分の片思いだったとしても。
「聞いてんの!?」
運転席で尚も彼女は金切り声を上げている。後部座席にはポーカーフェイスの鮫島が居り、彼女が何を叫ぼうと顔色ひとつ変えない。
だが、鮫島よ、何故また俺を助手席に押し込んだ?
俺はあの夜のことを全て記憶から消し去った程でいるが、あんたは全てを知っている筈だ。あんたは俺に──。
知っているからこそ、敢えて、俺をこんな危険な席に座らせているのか?いや、待てよ?よく考えてみれば、おかしな話だ。あの夜、奴は酔っ払っている俺をからかっていただけなのか。
「それは俺が嵌めた」
じゃなきゃ、普通、こんな彼女を逆撫でするようなことは言わないだろう?
流れで「ふざけるな!」と言ってしまいそうになったが、あの晩、酔っ払っていて俺は何も覚えていなかったという設定を思い出し、押し黙った。
俺は彼女の気持ちなんて知らない。
「はあ?意味が分からないんですけど!」
俺の代わりに彼女が文句を垂れる。
「何故、そんなに意地になる必要がある?俺は、こいつが気に食わないから、一方的に虐めているだけだが?お前もこいつのことを生意気だと言っていただろう?」
鮫島が淡々と言い放った。
い、虐めだと!?
気に食わないだとか、虐めてるだとか、生意気だとか、本人が居るところで言うか?それ。
「それとも、お前はこいつのことが気になるのか?」
もうやめてくれ。俺は別に彼女の気持ちを明らかにして欲しい訳じゃない。この中から死者が出るのは御免だ。
「べ、別に好きじゃないわよ!寧ろ、嫌いなんですけど!もう!とっくに目的地には着いてるんだから、早く車から降りなさいよ!」
阿呆な俺でも、今のは、ちょっと傷付いた。俺はどれだけ人に嫌われているのだろうか。やはり、俺はからかわれていたのか。
「なんなのよ」
そう言っている彼女の声は少しホッとしているように聞こえた。鮫島が後ろから居なくなったからだ。くそ、また置いて行かれた。
隣から強い視線を感じる。俺も早く降りなければならない。嘘だろ?こんな時に限って、シートベルトが上手く外れない。指輪やらシートベルトやら、どうなってんだ。
「ちょっと」
「んだよ?今、降りようとしてるだろうが?」
俺の視線はシートベルトに違う意味で釘付けだ。取り込み中で目も手も離せねぇんだよ。
「ぬぉ!」
また、それかよ!
力一杯にネクタイを掴まれ、無理矢理、運転席側に引っ張られた。
「こ、この前は…………ね」
「は?今、なんて言った?」
この女、会話する気はあるのか?
重要な部分は聞こえないし、赤縁眼鏡の向こう側で両目はそっぽを向いている。そっぽを向くどころじゃ無いな。俯いて押し黙ってしまった。
「なあ?なんて言ったんだ?」
本気で分からない。何か、鮫島について言ったのだろうか?だとしたら、今更、何なんだ?
「……この前は物騒なことを言って、悪かったって言ってんのよ!」
「いてっ!」
だから、何で叩くんだよ?この前は膝で、今回は頬か。痛ぇな。ん?待てよ?今、この女、何て言った?俺に謝ったのか?
「別に気にして……」
別に気にしていない、と言おうとして、俺は言葉を失った。いや、正確には彼女の顔を見て、だ。眉間に皺を寄せ困ったような顔で、こちらを上目遣いで見てくる彼女。何なのだろうか、この気持ち。心臓がうるさい。動悸がする。
「……冗談だろ?」
俺は、この女が好きなのかもしれない。
「え?」
「え?ああ、いや、こっちの話だ」
おかしい、そんな筈はない。俺の勘違いか?
悩んでいる最中、後手で解いていたシートベルトという鍵が外れた。
「別に気にしてねぇから。全く、本当に、全然。それじゃあ……」
会話の流れが変なのは分かっているが、今はそれどころでは無い。早く、外に出なければ。
「ちょっと待って。嘘じゃないから」
扉を後手で開けようとした瞬間、グイッと再度ネクタイを引っ張られた。
そりゃ、リードじゃねぇぞ?
「なんだ?」
「史に近寄らない方が良いってのは、本当。アイツ、悪いことしてるから」
俺の目をジッと見つめて彼女が言った。瞬間的にパッと離される俺のネクタイ。鮫島が何か良くない仕事をしていると言いてぇのか?意味が分からない。
「……っ」
彼女が剰りにも真剣な表情で言うから、意味を理解出来ないまま、俺は逃げるように外の世界に降り立った。
「おい、遅いぞ?一体、何をしていたんだ?」
鮫島は、また近くで俺のことを待っていた。伸びてくる腕の行き先は分かっている。
「触んな、自分で直す」
急いで、ネクタイを締め直そうとした。今の複雑な気持ちのまま、あんたに近付いて欲しくない。俺は近寄りたくない。
俺の反応は合っているんだろう?記憶が無いフリをするんだ、丁度良い。俺はあんたに近付かないようにしなければならない。何故なら、記憶が無いから。
「拒否する」
「は?何、言って……、くっ」
直すどころか、勢い良くネクタイを掴まれ、むちうちになるかと思った。いや、少し大袈裟に言っただけだが。
「何を恐れている?」
そう尋ねられ、俺は奴の顔が見れなくなった。未だに心臓がうるさい。俺の心臓は馬鹿になってしまったのか。ぶっ壊れている。
「何も怖くねぇよ。あんたのそういうところが嫌いなだけだ」
「どういうところだ?」
ネクタイを直していく鮫島の手だけが見える。こんなに近くで直さなくても良いだろうに。また、俺を虐めているつもりなのか。
「答えるわけねぇだろ?自分で考えたらどうだ?」
人の頭の中を読んでいるような、思っていることや考えていることが全てバレているような、そんなところが嫌いだ。口に出しては言わない。今、正直に言ってしまえば、俺が何かを恐れているということになる。
「生意気だな」
その言い方はまるで俺を餓鬼扱いしてるようだ。ネクタイから奴の手が離れていく。
「行くぞ?」
奴が俺に背を向けて初めて、俺は深く息をすることが出来た。毎度、地下駐車場でこのやり取りをしなければならないのだろうか?
よく周りを見渡してみれば、此処はこの前とは別の地下駐車場だ。俺の気の所為だろうか?何処からか、誰かに見られている気がする。いや、車の中の彼女とは別だ。車は沢山入っているが、人の姿は無い。
「どうした?」
それは此方のセリフだ。俺のことなんざ置いて自分だけ先に行けば良いだろう?エレベーターに乗って、何処の階に行くのか知らないが、別に俺なんざ居なくとも良いんだろう?
「別に何も無い」
そもそも、何故、俺を付き添わせるのか。自分が不在中に他人の俺を家に居させたく無いのなら、その時間だけ外に追い出せば良い。俺は居候だ、拒否なんてしねぇよ。
「なら、早く来い」
どうして、あんたは俺を走らせるんだ?遅れているのか?
走りながら、徐に左腕を見る。だが、思い出した。今日、俺の腕に時計は無い。あるのは、忌々しい指輪だけ。後々、俺はこの指輪の凄まじい威力に悩まされることになるのだった……。
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