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前編
『目を開かなければ、まだ夢の中』
第三金曜日の夜は予約を全て断り、一人の男に費やす。
無地のパーカーを羽織り、細身のジーンズに身を包んだ綿谷 知春 はどこにでもいそうな大学生だ。しかし繁華街を歩けば、道行く人の注目を集める。鼻筋が通った切れ目の瞳は冷たい印象を与えるものの、少し笑えば相手の言葉を失わせるほどの美しさがあった。
「遅かったね、ハル」
待ち合わせの駐車場に着くなり声をかけられた。セダンの運転席の窓が開いて、中からスーツを着た男が目を細める。
「忙しいから」
「君は売れっ子だからね」
含みのある男の言い方に反論も肯定もせず、知春は黙って助手席に乗り込んだ。
「……早く行こうよ」
「外だと本当そっけないな。……ベッドではあんなに可愛らしいのに」
運転席に座る男は恋人ではない。客だ。
知春はその美貌を生かして身体を売っている。
「ハル」
男が知春の髪に指を絡ませ、ゆっくりと耳をなぞった。くすぐったいような感覚に肩が震えそうになる。
この瞬間から、千春は『ハル』という名の男娼 になる。
「何食べたい?」
「中華」
ハルがそう答えると、車は静かに発進した。黒塗りの高級車は鮮やかなネオン街によく映える。
客の名前は、『サワさん』。本名は佐和 寿彦 。
ハルは彼といる時は概ね機嫌がいい。ハルは彼のことをフルネームを知るために財布を盗み見る程度には、気に入っていた。
ウリ専という職業上、ハルを人として扱わない客も多い。そういう客はハルを性欲を発散するための機械か人形のように考え、何よりも『コスパ』を大切にする。買った時間を楽しむというよりは、出したお金を一円も損をしたくないのだ。
佐和はそういった客の対極にいた。
彼はハルとの時間を心地よく過ごすために努力を惜しまなかったし、なによりハルを一人の人間として大切にしてくれる。
食事をご馳走してくれる客は多いが、女将が出てくるような店をわざわざ予約するような客は滅多にいない。
今日だってハルは駅前にあるチェーン店の中華屋を思い浮かべて言ったのに、連れて行かれたのは個室のある中華店だ。給仕がエプロンではなくネクタイを締めているような高級店である。
ハルは落ち着かない様子で目の前に広がった真っ白のテーブルクロスを眺めていた。
この仕事をしていなければ、縁のない店だ。庶民育ちのハルにとっては、何度も連れて来られても緊張してしまう。
(最後の晩餐にはふさわしい……か)
「どうした」
「え」
不意に声をかけられて、ハルは顔を上げた。向かいに座っている佐和は開いたメニューの上からじっと彼の顔を見つめていた。
「ずっと浮かない顔をしている」
佐和の見透かすような視線にドキッとした。
ハルには今日彼に伝えなければならないことがあった。
――ハルは今日で、売り専を辞める。
もともと、学費を貯めるために始めた仕事である。その目的は一年前に達成され、つい先日、就職先も決まった。
これ以上ウリを続けるのは危険だ。
『もう店を辞めるから』
ずっと前からそう言おうとしていた。
そう言ってしまえば、彼ともう会えなくなる。
その思いが、ハルの口を重くした
佐和との時間は特別だった。彼はいつもハルの知らない世界を見せてくれる。それをひけらかさず、ハルを対等に扱ってくれる。
それはハルが売れっ子の売り専だからだ。その肩書きがなくなれば、ハルはもう佐和と会う理由がなくなってしまう。
そうして先延ばしにしてきたが、引退当日となっては話は別だ。
さすがに今日こそ言わないとまずい。そう決意して口を開くが、結局出てきたのは違う言葉だった。
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