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第1話

「春馬、バッグから携帯取ってくれる?」  何気なく声を掛けたつもりだが、声は上擦っていなかっただろうか、震えを気取られていないだろうか?  海外出張から戻ったその日、帝人は十年付き合った春馬に別れを告げると決めていた。  春馬を嫌いになったとか、別の誰かと一緒になろうと思った訳ではない。許されるのなら、このまま春馬と過ごしたい、やがて訪れる「老後」と言う名の大人のロングバケーションを過ごす時、傍らに彼が居てくれればいいと心から願っている。  しかし願いは全て叶えられるものでもないし、例え叶えられるものだとしても、叶えて欲しい者と、叶える側に齟齬があれば、叶ったところで幸せを呼び込めるものかは解らない。  帝人がそこまで考えていたかは、解らないが、自分本意で身勝手な行動ばかりしている彼が、珍しく の恋人に過ぎない春馬の将来を思い、別れを画策したのであった。 「はい、どうぞ」  そう言って春馬が差し出した携帯を、帝人は受け取らずに上着を脱いだ。 「薮下からメールが届いてるはずだから開いて、解除コードは880323だ」  窮屈なネクタイを緩め、シャツのボタンを外したところで春馬の様子を確かめると、携帯を持ったまま、小首を傾げて帝人を見つめている。コードが聞き取れなかったのだろうか? 「880323。薮下からのメールだ」  帝人はもう一度、今はまだ届いていないはずのメールを開けと促す。 「いいの?」  これまで帝人の携帯を操作するどころか、ロック画面以外見たことがない春馬は戸惑っていた。これまで浮気を疑った事はあっても、携帯をチェックしようと思った事は一度もなかった。  同棲しているからと言って相手の全てを暴く権利はないし、その小さな端末は春馬の知らない帝人を象徴しているようで、むやみに触れて取り返しのつかない事になるのが恐かった。だから帝人に解除コードを教えて貰っても、信頼されてるんだと喜ぶ気持ちより、得体の知れない不安感に春馬は捕らわれていた。

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