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4一8
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ヘッドホン越しにも物凄い音が響いた。
女性の悲鳴と、何かが落ちて破損する音、ガラスの割れる嫌な音もした。
同時に男性の怒鳴り散らす声もして、由宇は背筋が寒くてたまらない。
ドタバタと凄まじい誰かの暴れっぷりにより、その場にあるものがめちゃくちゃにされていそうだ。
恐らくその犯人は橘だろうが、一体中で何が起こっているんだと窓のスモーク越しにペンション内を覗こうとしても、外観はさっきとまったく変わらず穏やかに建っている。
「出て来るよ」
「えっ?」
拓也の行った通り、悠然とこちらへ歩いてくる橘が見えた。
その後ろには、脅えた様相の女性も付いてきていて、それが橘の婚約者である事は明白であった。
「手こずらせんなよなー。 早く乗れ」
後部座席の拓也さん側のドアが開いて、橘に強めに促された婚約者がおずおずと乗り込んでくる。
身なりは普通のワンピースだが、婚約者はとても美しかった。
綺麗に整えられた髪と目を引く顔立ちは、そこら辺の着飾った女性十人足しても足りないと思わせるほどだ。
肩を落とし、橘の姿には怯えきっている婚約者は拓也の隣に大人しく着席し、どうしていいのか分からない様子で俯いている。
何となく、由宇はソッと反対側のドアに寄った。
「お疲れさまでした、風助さん」
「お疲れ。 中の弁償はあの親父にやらせっから心配すんな」
「…………………………」
橘にとっての満面の笑みで婚約者を威嚇すると、由宇の方をチラと見て「行くぞ」と声を掛けてきたが、一瞬自分も怒られている気持ちになって頭が働かなかった。
「そっちから降りろ」
そう言われてやっと、この場から退散するのだと理解してドアに手を掛け車から降りる。
最後尾の仏頂面の二人にはとてもじゃないが無理だったが、優しそうな拓也にだけはお礼を言っておこうと、降りてからもすぐにはドアを閉めなかった。
「拓也さん、ありがとうございました」
「チワワちゃんもありがと」
「え、俺何も……」
「行くぞ」
拓也からも謎のお礼が返ってきてキョトンとしていると、橘に腕を引かれて彼の助手席に再び収まった。
由宇が起きてからまだ十五分ほどしか経っていなかったが、対話では埒が明かなそうな二人をとりあえず引き裂く事には成功している。
運転席に乗り込んだ橘が、我慢できないといった風に由宇を見た。
「こっちじゃなくてこっち吸っていいか?」
「…大丈夫…だけど。 窓開けてくれれば」
「ん」
まだ中での橘の大暴れが尾を引いていて視線を寄越されるのも怖かったが、電子タバコではない方のタバコを吸っていいかと問う辺り、正気を失っているわけではなさそうだ。
窓開けてどこかへ走り始めた橘は、由宇の言う通り四つすべての窓を半分だけ開けてタバコを吸っている。
「ど、どこに向かってんの?」
「病院」
「………病院? はっ、まさか…」
「そのまさか」
橘は落ち着かないのか、二本目のタバコに突入した。
(怜のお母さんがいる病院、って事だよな……? どうするつもりなんだろ…)
まさかお母さんの現状を見せるつもりなのだろうか。
それはそれでお互いが傷付く羽目になりやしないか、由宇は橘の考えている事が読めずこの後の展開を予想する他なかった。
「そこのガム取って。 二つ」
「ガム? ………あ、これか。 はい」
考えを巡らせていると、信号待ちで橘からガムを催促された。
目の前のドリンクホルダーに入っていたボトルから粒ガムを二つ取り、橘に渡す。
「口開けろ」
「んんむっっ…っ……んんっ…っ」
「こないだはミントだったろ。 これレモン味」
「ほんとだ。 ……って、だからさっきの何!! またおえってなりそうに……」
「シーッ。 今お前と言い合ってる余裕ねーから大人しくしとけ」
「………くっっ……」
由宇の口の中へガムを入れてくれる際、またも橘の二本の指先が侵入してきて気持ち悪かった。
あれはなんなんだと怒ってやろうとしても、ガムを噛みながら器用にタバコを吸う横顔は確かにいつもより余裕がなさ気だ。
大人しくしてろ、と言われてしまい、黙ってレモン味のガムを咀嚼して怒りを紛らわす。
早々に味がなくなるまで噛んでやった。
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