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7一5
7一5
あれは明らかに恋人同士がするようなキスだった。
触れ合っていた数秒間、辺り一帯の時が止まったかと思うほどに呆然とした。
突然の出来事についうっかり橘に身を委ねてしまい、窓辺から射し込む夕暮れの濃いオレンジ色がやけに脳裏に残っている。
近付いてきた時、触れられた時、離れていく時、どの瞬間も知った香りがした。
橘の車内のムスクの香りと、読めない英語が書いてあるシャンプー諸々。
ガムキスの衝撃も相当だったが、今日のあれは衝撃なんて言葉では足りない。
(ファーストキス奪われた……。 ふーすけ先生が一番オオカミじゃん…)
はなからあのガムキスは数には入れていないので、由宇のファーストキスの相手は橘だという事に決定した。
無理やりだ。
忘れられるはずのない初めてのキスが、よもや男で、しかもあんなにマイペースな俺様魔王だとは……。
橘があの謎のキスについてきちんと説明をしてくれないせいで、由宇は怜の自宅に来てからもずっと上の空であった。
それも致し方ない。
昨日問題が一つ解決したと思ったら、新たに巨大な問題が二つも生まれたのだから。
「由宇、眠れない?」
ベッドに入り、寝返りを打って落ち着かない由宇を怜がソッと抱き締めてきた。
橘は怜をひょろ長などと平気で悪口を言うが、怜はひょろひょろではない。
細身なだけだ。
由宇より頭一つ分は背が高いから、図書室で背伸びしても取れない本を怜はやすやすと取ってくれる。
ニコッと微笑んで、「どうぞ」と優しく手渡してくるその所作さえ絵になる男前だ。
そんな怜がなぜ自分を好きだなんて言うのだろう。
由宇も怜の事が大好きだけれど、それは完全に好きの意味が違う。
(そうだ………怜にちゃんと言わなきゃ…)
橘に、「せいぜい頑張って唇と貞操守れよ」と丸投げされてしまったから、この件に関しては助けてくれるつもりがないらしい。
という事は自分で決着を付けなければならないのだが、愛しい恋人を慈しむように優しく抱きすくめられていると胸が苦しくなってくる。
由宇と怜ならば、男同士という弊害はさておき、とても良好なお付き合いが出来たはずだ。
(俺が怜を好きだったら、の話だけど…)
男前で、背が高くて、優しくて、料理が得意で、勉強も運動も抜きん出て優秀で、となれば女性がほうっておかないはずはないのに…。
「ねぇ、怜。 …俺のどこが好きなの?」
「え?」
あとに続く言葉を一つも用意していなかったのに、由宇は怜の気持ちを確かめるように思わずポロリとそんな事を聞いてしまっていた。
聞いたところで由宇の気持ちは変わらないが、才色兼備な色男が「好き」だと言ってくれるのが不思議で仕方なく、ちょっとだけ興味があっただけだ。
今まで一度もそんな経験がないため、本当に、ドラマの中の出来事のように感じてしまう。
怜は由宇の心根の思いを知らないまま優しく微笑んだ。
「……寂しそうだったから、かな」
「……………………ん?」
「どこが好きかっていうのはちょっと分かんない。 一緒に居てあげたいなって思った。 それだけ。 由宇はいつも無理して笑顔作ってるから」
「そんな事ない…と思うけど……」
「そんな事あるよ」
(…無理して笑顔作ってる…? ……俺が?)
そんなはずは…と視線を逸らすと、怜はギシ…とベッドを軋ませて由宇に馬乗りになった。
「れ、怜…っ?」
この状況はよくない、非常によくない。
自分の笑顔が作り笑いに見えているらしいと知っても、今はそれどころじゃない。
『男は狼』
橘の声が蘇る。
怜が由宇を押し倒すような態勢になっていて、見上げた先には真剣な怜の顔があった。
(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう…………!!)
今日一日ひたすら心の中で連呼した「どうしよう」が脳内に渦巻いた。
怜の瞳の奥にはおそらく、狼が舌なめずりして待機している。
「由宇は俺のどこが好き?」
(それは聞かないでーー! 違うんだよ、怜…! 大好きなのには変わりないけど違うんだよー…!)
きっと、由宇達が本当の恋人同士ならとても楽しい会話となっていただろう。
何も言えずにまさしく由宇の瞳がぐるぐる目になっていると、耳元でふっと微かな笑い声がした。
「…またその照れた顔してる。 それ見ると手出せなくなるんだよなぁ」
はぁ、と溜め息を吐きながらゴロンと由宇の隣に戻ってきた怜は、いつもの怜だった。
「て、照れた顔なんか…」
「手出さないで、ボクにはまだ早いから〜って顔」
「ボクなんか言った事ないだろ!」
「そう見えるんだからしょうがないじゃん。 ………焦らないよ、俺は。 大事にしたいから」
(あ………そのセリフはちょっとドキッてした)
怜がうまく誤解してくれたおかげで、戸惑いまくっていた由宇の唇と貞操の危機は免れたらしい。
どこが好きかはよく分からないと言われてしまったが、怜は由宇を「大事にしたい」と言ってくれた。
その言葉が本当なら、ぐるぐる目になって訳が分からなくなる前にきちんと話をしなければ、せっかくの怜の尊い時間を無駄にしてしまう。
だから寝てはダメだ。
寝る前にちゃんと、話を…しないとーーー。
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