７一８ 広々とした室内には、申し訳程度の家具家電がこじんまりと配置されている。 ここは言わずもがな、緑豊かな風景や山あいの景色を眺める事に重きを置いた、日常生活に疲れた者達を癒やす場なのだろう。 由宇はバルコニーへ出てみた。 （うわ………気持ちいいな、マイナスイオン浴びまくりじゃん） 都会での生活に慣れていると、この空気を吸う機会がめっきり無い。 雑味のない自然の音は心も浄化してくれそうだ。 「いいとこだろ」 橘もバルコニーへ出て来て、由宇の隣で腕を組んで遠くの景色を眺めている。 「うん。 落ち着くね」 「嫌な事から逃げるのは簡単だけどな、逃げると尾を引くから早めに決着付けろ」 「……………もしかして怜との事言ってる？」 「あ？ そうなるのか？」 「……ふーすけ先生が言ったんだろ、なんで俺に聞くんだよ」 橘の話はいつも唐突だ。 こうして静かな場所に連れ出してくれたのは、由宇が怜と居るのがツラくなっていると悟って気を利かせてくれたのではと思った。 この悪魔顔の先生は、何気ない優しさをたまに分からないように向けてくるので非常に感謝しづらい。 現に今も何を考えているのかまったく見えない無表情で、時折吹く山風に目を細めている。 「そうなるんなら、そうなんじゃね？ 俺、短期集中型」 「先生はそうだろうね。 怜の家族の事も年内に決着付けようとしてるし」 「その方が悩む時間少なくて済むだろ。 結果なんかぶっちゃけどうでもいい。 課程さえしっかりしときゃわりかし全部思い通りになる」 「……先生も悩んだりするんだ？」 「いや？ 悩まねーよ。 事件起こりましたー、情報と証拠集めますー、はい解決」 「え、解決まで早くない？ その間にもっと色々あるんじゃないの」 そんなに簡単に縺れた糸は解けるのだろうか。 橘が言うと、どんな難事件でも本当に容易く解決できそうに聞こえるから不思議だ。 この風貌と雰囲気からして、教師ではなく刑事の方が向いていそうである。 「ねーよ。 証拠がすべてだ。 ひょろ長の家の件は、感情絡んで母親もあんな状態だから厄介なだけ。 この俺が一年掛かりだ」 「一年…………」 怜の家族の事も真剣に動いている事が如実に分かる発言に、由宇も違う悩みに頭を抱えている場合ではないと神妙に頷いた。 「…………そう、だよね…」 ここ何日も巡るのは、怜とのお付き合いをどうやって解消しようかという事ばかりだった。 怜を傷付けないためにはどう言えばいいのか、その後の友情に支障が出ないようにするにはどういう心持ちで居るのが正解なのか…。 まずは怜の家族を元に戻さなければならないのに、橘にも早期解決を促されたためどちらも同時進行で考えなくてはならない。 答えのない難解問題を解いているような気分になって、由宇は無言で綺麗な山々を見詰めた。 「お茶冷めるから中入るぞ。 晩飯は牛でいいだろ？」 踵を返した橘に背後からそう声を掛けられ振り向くと、山風が二人の間をすり抜けた。 少しばかり肌寒さを感じて、パタパタと橘のあとを付いていく。 「……あ…うん、いいけど…。 今日ここに泊まるわけじゃないよね？」 「何言ってんだ、泊まるに決まってんだろ。 ちなみに明日までな」 「え！？ 明日までって、俺制服持ってきてないよ！？」 「は？ ひょろ長ん家にあんの？」 「うん、先生と居るの土曜だけかと思ったから、日曜は怜のとこ泊まる気だった」 「わざわざ鴨がネギ背負って出向くかね。 明日午前中取りに行け。 送ってやっから」 本来は日曜が橘と過ごす日だったのに、それが前倒しになったのでここに滞在するのは今日だけだと思い込んでいた。 まさかの連泊発言に驚いて、しかもわざわざ制服を取りに行くためだけに怜の家に送ってもらうなど悪い。 「そこまでしなくていいよ！ 明日は先生一人で優雅に過ごしたらいいじゃん！」 「それ無し。 明後日こっから俺と登校。 決定」 「先生、勝手過ぎ！！」 「んな事言っていーのか？ 数学教えてやり放題なんだけど」 「そ、それは………！！」 お茶の入った湯呑みを手渡されたが、とても飲める気分ではない。 重大な問題を抱えてる身で数学を教えてもらっても頭に入らない気がした。 それなら時間を作って怜と話し合う方が解決に近付けると思うのに、早期解決を促した橘からそう言われてどうしたらいいのだろう。 ソファに腰掛けてお茶を一口飲んだ橘が、突っ立ったままの由宇に向かって悪魔の微笑を向けた。 「医大目指してファイト」 「うーーーっ、それ言われると何も言えないっ」 「お前うるせーから何も言わなくていい」 「うるせーなら帰るけど！？」 「帰るつもりならその手首に手錠掛けてベッドにつないどくけど？」 「はぁっ！？！？ そんな怖い事サラッと言うなよ！！」 「じゃあ大人しくここに居れば。 美味いメシもでっけぇ露天風呂も広いベッドもあんだし。 何が不満なわけ」 「不満なんか………」 そんなものあるはずがない。 手錠云々の怖い事を言ってビビらせてきたかと思えば、謎のキスを二度も仕掛けてきた張本人だというのにこのあっけらかんとした態度。 それが唯一の不満だけれど、この場所や橘と居る事に対しては異論も無い。 （怜との事を相談するいい機会、だと思うか………） どうしてこんなによくしてくれるんだろう。 普通に考えて、ただの生徒を外観も内観も景色も美しいこんなペンションに招待してくれるなんて、意味深だと思わずにはいられない。 「あ、ここ室内禁煙じゃん。 帰るか」 「は！？」 「冗談だ。 バルコニーでタバコ吸ってくる」 「……はは……意味なんか無さそうだな…」 橘のやる事にはすべて意味がありそうだと思ったのは、まやかし…なのだろうか。 由宇は抱える問題が多岐にわたっているせいで、いよいよ彼の本質さえも見失いかけていた。