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8一3
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エントランスを抜けると、橘の車がマンション前の小スペースに横付けされていた。
相変わらず時間より早めに来る男だ。
「は、ちょっと待って。 なんでアイツが居るんだよ」
運転席に橘が見えた瞬間、怜があからさまに嫌な顔をして立ち止まった。
「最悪。 休みの日まで顔見たくないんだけど」
怜は未だ何も知らず、橘が婚約者をほったらかしていると思い込んでしまっている。
数学の授業中も決して橘の方は見ないと言っていたから、憎しみのこもった目でチラと車を窺ったあとスタスタと駅の方へと歩き出した。
由宇は慌てて怜に追い付こうとするが、憤慨している怜の歩幅はかなり大きくてなかなか追い付けない。
「…っ怜、待って! 聞いて! 話があるって言ったの、これなんだ!」
「………どういう事?」
怜の背中に向かって叫ぶとようやく立ち止まってくれた。
振り返った怜は険しい表情のままだ。
マンションから数メートル離れただけなのに、橘が由宇達の傍へゆっくりと車を付けてくれる。
「…お願い、先生の車に一緒に乗って欲しい。 怜が怒ってる気持ちも分かるけど、まずは話を聞いてほしい…!」
「なんで………? 意味分かんない」
「いいから乗れ。 面会時間は決まってんだから」
助手席側の窓を開けて、橘が少しだけこちらに体を傾けて怜に向かってそう声を掛けた。
怒りの感情を持て余しているせいか、由宇と橘の顔を交互に見やって溜め息を吐く。
「……なんかありそうだな。 分かった、乗るよ」
橘の台詞にピンときたのか、訳が分からない状況にも関わらずあたふたと慌てもしないで、怜は至極冷静に後部座席に乗り込んだ。
それに由宇も続く。
二人が乗り込むと、橘は無言で車を出した。
怜の母親の病院へと走り始めた車内では、何とも重苦しい空気が漂っている。
(はぁ………息が詰まりそう……)
早く説明してあげたい気持ちは山々なのだが、低いマフラー音しか響いていない車内は暗くて嫌な感じだ。
まるで、由宇の自宅のように居心地が悪い。
年長者である橘が口火を切ってくれても良さそうなものなのに、まったく意に介してないようで、ルームミラーに映る涼しげに前方を向く橘の顔を睨んだ。
「…………由宇、どういう事?」
橘も由宇も押し黙り、意味不明な車内の雰囲気にいよいよ焦れた怜が、由宇の顔を覗き込んだ。
「あ、……あの、えっと実は………」
由宇はそこでやっと、話し始めた。
説明下手で申し訳無かったが、たどたどしくも最初から現状まで、すべてを打ち明けた。
怜の母親が橘の恩師で、婚約者などそっちのけで園田家を救おうとしている事も全部だ。
黙って、時折頷きながらも怜は真剣に聞いていてくれた。
誤解だったとはいえ、この状況下では橘に負のイメージを持っていても仕方がないけれど、怜の想像とは少し経緯が違うのだという事は伝わったのではないだろうか。
「橘先生、本当なんですか? 今の」
入学してからというもの、まともにその姿を見もしなかった怜がルームミラー越しにジッと橘を見据えた。
その視線に気付いていないはずはないのに、橘は前方から視線を逸らさないまま「あぁ」と一言だけ返事をする。
「…………今日はパニックの連続だな…」
橘の素っ気ない返答はいつもの事なので、怜はそれが真実だと悟ってくれたようだ。
溜め息を漏らして苦笑する怜の横顔は、複雑な心境なのを如実に物語っている。
「そ、そうだよな! ……ごめんね、怜。 今まで黙ってて……。 婚約者さんとお父さんを引き離すのに時間が掛かっちゃって、それが落ち着くまではどうしても言えなかったんだ…。 道筋が見えないままこの話をしても、余計な事するなって怒るだろ、怜は」
「まぁ………うん、そうかもね」
「お母さん、怜の事すっごく心配してるみたいだった。 …会いたいんだと思うよ」
そんな母親に今まさに会いに行こうとしているので、怜の胸中を思うと矢継ぎ早に下手くそな説明なんかをして動揺させて本当に申し訳ないと思う。
だがこれが橘の言う「短期集中、短期決戦」なのだ。
結果に至るまでの経緯さえしっかりしていれば、自ずと良い方向に向かうと言っていた言葉を由宇は信じきっていた。
怜と別れ話をしたその足で見舞いに行かせようとするなんてどんな鬼畜かと思ったが、橘ははなから二人の盛大な勘違いすら分かっていたのではと思うと怖くなった。
運転する橘の真剣な顔が、やはり刑事のように見えて仕方ない。
「……………なんか今週説得染みた事色々言ってくるから、おかしいなぁと思ってたんだよね。 遠回しだったけど、違和感バリバリだったよ」
「俺ウソ吐けないから…そりゃ変に思うよね…。 ごめんってしか言えない」
「いいよ、もう。 全部理解した。 俺が母さんのとこ行くの怖がってたせいで事態が長引いてるんだって事もな」
「怜……………」
「怖がらないで、もっと早く母さんのとこに行ってあげないといけなかったんだ。 母さんを立ち直らせてやれるの、俺しか居ないのにな。 弱虫だよ、俺は…」
「怜、そんな事ない、そんな事ないよ!! 俺も同じ立場だったら会いに行くの怖いって思うよ!」
怜が母親の元へ行く決心が付かなかったのは、父親を奪った橘の婚約者への恨みの感情もプラスされて、常に鬱々とした気持ちだったからきっと余裕が無かっただけだ。
突然家族がバラバラになったせいで、ひとりぼっちになってしまった怜は寂しさをも抱えていたから、誰かに背中を押されない限り前へと進む事など出来なかっただろう。
自分の事のように捉えて瞳をうるうるさせている由宇に、怜が優しく微笑みかけた。
「ありがとね、由宇。 俺の事支えてくれて」
「これからも支えてあげるよ! 俺もいっぱいお世話になってるし…っ。 お互い様だ!」
様々な情報をいっぺんに聞かされて、物凄い動揺に見舞われていてもおかしくないはずが怜は至って冷静沈着だった。
頭が良くて心根の優しい怜は、前を向くと決めたらその気持ちは揺るがないらしい。
今までに見た事がないほど、怜の表情は明るくて…穏やかだ。
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