８一８ 田中太郎って誰。 そんなどうでもいい事を考えてさっきのキスの記憶を打ち消そうとしているが、まったくダメだ。 橘は、ブチギレモードからいつの間にいやらしいモードへと変わったのだろうか。 気付いたらキスされていて、恥ずかしいような照れくさいような台詞をたくさん吐かれて、これは現実なのかと頭の中で格闘していたら意識が朦朧としてきた。 そうして覚醒した時には、知らないうちに橘の車の後部座席に座っていた。 隣にはどこか嬉しそうな怜が居て、運転席にはもちろん悪魔が……もとい、橘が気だるそうに片手で運転している。 （あ………そうだった。 怜のお母さんのお見舞いに来てたんだっけ…） 衝撃の出来事がいくつもあったせいで忘れていたが、母親との面会はどうだったのだろうか。 まずは己の事より、怜の話を聞く方が先だ。 「怜、…お母さんと話せた？」 「うん。 ぎこちなかったけど…少しだけね。 何気ない事をちょこっと話したよ」 「そっか……」 ここへ来る直前まで、やはり怜は心の中での決意が決まらず逃げ出したかったのだろう。 いよいよ病室へ向かう、となった時の緊張で強張った表情が今は微塵も無い事から、面会はどうやらうまくいったようだ。 母親の姿を見て、少しだけでも会話が出来たのなら良かった。 本当に良かった。 「ありがとう、由宇。 由宇が背中押してくれなかったら、俺はずっと一人で葛藤してたと思う。 母さん、来てほしそうだったから…出来る限りお見舞い来るよ」 儚い笑顔を向けられた由宇は、自分の事のように嬉しくなった。 入学当初から感じていた落ち着いた大人な雰囲気は、それは怜が誰にも弱ったところを見せたくないという思いから、強固な鎧を纏っていたせいだったのかもしれない。 温かい家族が突然バラバラに引き裂かれた現実など、受け止めきれなくて当然だ。 それなのに、由宇には怜の方から話し掛けてくれた。 由宇の名前が書かれた机上を指差して、「それ、何て読むの？」と声を掛けてくれた。 由宇も寂しそうだったと後に怜は言っていたから、似た者同士が自然と引き寄せられたという事だ。 友情の始まりは、相手が自分を受け入れてくれるかという緊張と不安に苛まれてしまう。 それどころではなかっただろうに、勇気を出してくれた怜にこそ「ありがとう」と言いたい。 「怜………」 「試験前以外は毎日来てやれ。 送迎が必要なら言ってくれたら俺と舎弟が協力する」 黙って聞いていた橘がそんな優しい事を言ってくれている。 運転中の橘の澄ました顔がルームミラーに映っていて、由宇の視線はどうしても唇へいってしまった。 （あ、あんなエッチぃキス……一体どんなつもりで……！） 「あ、いえ。 大丈夫です。 母さんがここまでのバスの定期、作ってくれてました。 期限が切れる度に更新してくれてたんだって」 「そ、そうなんだ……。 お母さん、怜に会いたかったんだね」 「うん。 ……もうね、母さんが元気になってくれたら、俺はそれでいいかなって本気で思えるようになってる。 まだ橘先生の婚約者の事は許せないけど、俺と母さんが幸せならそれで充分って気がしてる」 怜は見た事がないほど清々しい表情をしている。 会うのが怖いと逃げ腰だったけれど、いざ母親と面会して恐れは消えたようだ。 まだまだ予断を許さない状況ではあるものの、息子と毎日会話をしていくうちに母親の心も次第に浄化していくだろう。 あとは、父親と歌音の気持ちがどうなっていくかという問題に変わってゆく。 「そこまで思えるようになったんなら、もう大丈夫だ」 二人を無理に引き離したのは、橘がその想いがどれほど強いかを試そうとしているのではと推測した。 結果はぶっちゃけどうでもいい、と言っていたから、どうやら園田家をまとめる事だけが解決の道ではないと気付く。 みんなが幸せになる方法はないかもしれないが、道を探してあげる事はできる。 由宇が言った台詞そのまま、橘はシナリオを一つに絞らずに実行しようとしてくれているのだ。 「………はい。 橘先生、事情も知らないで今までツンケンしててすみませんでした。 母さんの事、支えてくれて感謝します」 「お前は弱虫じゃねーから大丈夫。 あの園田さんの息子だろ。 もうちょい気強いかと思ったが違うらしいな」 怜のマンション前に停車させると、橘は振り返ってニヤリと笑った。 こんな時まで、橘の唇に目が行く。 さっきから橘をそういう風にしか見ていない由宇は、もしかしたらあのキモい男と変わらないかもしれないと気付いて愕然とした。 （お、俺……超キモいんですけど…！！） 橘とのキスなんかすぐに忘れてしまえ！と脳内で悪魔の格好をしたミニチュアサイズの由宇が叫んでいる。 その隣には天使の格好をしたミニチュア由宇が居て、「忘れるなんて無理だよ、あんなに情熱的な事を言われたあとだよ？ 意識しちゃうのも当然でしょ？」などと余計な二言を言うもんだから、どっちが正解なのか分からない。 「おいポメ、制服」 怜が先に降りてしまった事にも気付かず、天使と悪魔のやり取りを考えていてぼんやりしていた由宇は、橘の声にハッとした。 「あっ……そうだった。 い、いやダメだよ！ 今日は無理…！」 「いいから行け。 明るいうちに露天風呂入りてーの」 「一人で入ってよ！」 「なんで。 昨日一緒にイけなかったんだから、今日は思う存分気持ちよくなろーや。 明るいうちに熱いナカに入ると最高だぞ、昇天しちまうかもな」 「ちょっ！ やらしい言い方すんなよ！！」 「フッ…。 おら、ひょろ長待ってんぞ。 早く取ってこい」 「またひょろ長とか言ってるしっ。 分かったよ。 取ってくればいいんだろ、取ってくれば！」 この調子では、キスの理由なんか聞けやしない。 だが、三度も唇を奪われた由宇は橘からきちんと説明をもらいたかった。 車を降りて制服を取りに行く間も、何故だか気持ちが浮足立っていた。 まるであのキスが、内心ではちょっぴり嬉しかったとでもいうように。