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9一10
9一10
橘の運転捌きは絶妙だったが、由宇の寿命はきっと三年は縮んだ。
朝のラッシュ時間と重なって渋滞を巻き起こしていた道を、すいすいと車線変更して何とか遅刻せずに学校へと到着したものの、授業を受ける前にヘトヘトである。
(いやいや……運転もだけどあんな事やこんな事のせいだ……! 魔王め……朝からあーんな恥ずかしい事しまくりやがって…!)
爽やかとは程遠い面持ちでチャイムと同時に教室内へ飛び込むと、出入り口に怜が待ち構えていて驚いた。
「おはよう、由宇」
「あ、お、お、おはよ、怜」
「どうしたんだよ。 そんなにどもって」
朝のいやらしい行為を蘇らせる寸前で、驚いた拍子に舌を噛んでしまいそうだった。
由宇の内心とは対象的に、心なしか怜の表情は清々しく見える。
母親との対面で、思い悩んでいた事が吹っ切れたのかもしれない。
「もう担任来そうだ。 また後でな、由宇」
「うん、……」
席へと戻って行く怜の後ろ姿を見詰めていたのは、由宇だけでは無かった。
入学当初から、怜を密かに狙っているクラスの女子達の視線も同時に突き刺さっていたが、果たして怜は気付いているのだろうか。
由宇の勘違いに終わった(と思っている)怜とのお付き合いも無事に無かった事になったので、モテモテなんだから彼女でも作ればいいのに、とこちらを向いてフッと微笑む怜を見て思う。
怜の家族の件が解決したら、発破をかけてみよう。
鞄の中身を机の中へとしまっていると、教室の扉が開いた。
朝のHRの時間なので当然ながら担任の姿を想像して顔を上げる。
(なっ!?! なんで……!?)
「あれー!? どうして橘センセーが来たのぉ?」
「担任の佐藤先生が病気らしい。 っつー事で暇だった俺が年内はここの代理担任になったからよろしく」
ザワついていた教室内が、ブラックスーツをビシッと着こなした橘が現れた事で一気に緊張感に包まれた。
橘がいつも威圧感たっぷりなせいで、男子生徒は見るからに嫌そうなのに対し、女子生徒ははしゃぎまくっている。
熱っぽく怜を見詰めていた生徒でさえ、教壇に立つ橘に釘付けだ。
(えぇぇぇっ!? なんで佐藤先生病気になっちゃったんだよ〜! 先週まで元気だったじゃん!! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…!! ふーすけ先生が担任だなんて嫌だしかない!)
誰にも負けないほど盛大に嫌がっているのは由宇ただ一人で、少々派手めな女子生徒達は橘との会話を楽しみたくて前のめりになっている。
「え〜! 嬉しいんですけどぉ!!」
「やったぁ♡ 他のクラスの友達に自慢しちゃおー♡」
「てめぇら…担任は病気だっつったろーが。 少しは心配してやれよ」
「心配してるよぉ〜! でも橘センセーが担任だっていう喜びの方が大きい♡」
「ふーん。 変な奴ら」
生徒に向かっていつもの悪魔を出していても、この半年ほどで橘の性格を分かっている生徒達は色めき立ってうるさい。
昨日今日のあれこれが無ければ、由宇だってもう少し冷静でいられたかもしれないが、橘の欲情した姿を知ってしまった今は直視できるはずが無かった。
悪魔のように意地悪く笑うくせに実は優しいと思われる橘から、様々なドキドキを仕掛けられた後だ。
これは一体誰の差し金なんだと思わずにいられない。
「一限数学だからこのまま始めていーだろ?」
「やだよぉ、休ませて♡」
(嫌だよ! 時間まで休ませろよ!)
うるさいと思っていた女子生徒と初めて気持ちが通い合った。
口には出せないが直視もできず、誰かが過去に彫ったと思しき机のキズをひたすら見詰めてやり過ごそうと決める。
きっと、担任が健在で一限から橘が現れたとしても同じ事をしていた。
橘のいやらしい姿もだが、由宇自身の恥ずかしい姿をも見られているので、合わせる顔がないのだ。
車中でもなるべく目が合わないようにしていて、それがいかにも橘を意識してますと悟られたくなかった由宇は、無駄に空元気にしてみせて魔王に鼻で笑われた。
朝から元気だな、ポメは。と悪魔の微笑付きで。
「あと十分もあんじゃねーか。 俺ヒマなんだけど」
今日もマイペースな「橘先生」は、無表情のまま担任用のデスクに腰掛けて肘を付いている。
「じゃあセンセーの事教えてよ〜♡」
「何を」
「彼女いるんですかぁ?」
「いねーよ」
「キャーッ♡ あ、でも実は結婚してたりして〜!?」
「それもねぇ。 婚約者はいるけどな」
「えっ?♡ マジ〜〜!?」
「大ニュースだよ、それ〜!」
「何でニュースなんだよ。 俺もう26だからな。 そりゃ結婚も考えるだろ」
「彼女は居ないのに婚約者ってどういう事なんですか〜?」
「政略結婚。 なぁ、もうこんなどうでもいい話やめろよ。 タバコ吸いてぇ」
足を投げ出してだらしなく座る橘は、とても教師には見えない。
由宇はハッとして、その欠伸する姿をこっそり見詰めた。
かっこよくて、すらっと背が高くて、全身から何となくセクシーなオーラを大量に放つ彼に、婚約者がいるという事をすっかり忘れていたのだ。
(その婚約者って………歌音さん、だよな……?)
橘と歌音が二人並んだ姿を、まったく想像出来ない。
それというのも、怜の父親と歌音が禁断の恋に走っていて、それが原因で一騒動を巻き起こしているからだ。
だが現在の歌音の婚約者は橘である。
(ダメじゃん…俺なんかにちょっかい出してる場合じゃないよ、ふーすけ先生…!)
忘れていた重大なことに気付いた由宇は、昨日と今朝のいやらしい行為の事は絶対に誰にもバレないようにしなければと焦り始めた。
やってしまった後なので取り返しが付かない。
だったら、今後は二度とないようにすればいい。
あのペンションの雰囲気にやられただけなら、橘ももう手は出してこないだろう。
そう思っていたのにーーー。
数学の授業が始まって、皆が一斉に問題に取り組んでいる最中だった。
(……………っっ)
ふと視線を感じて顔を上げた先で、橘がジッと由宇を見ていた。
それは何だか、由宇を煽るかの如く濡れているように見えて、目を逸らせなかった。
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