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10一1 ●ふーすけ先生の葛藤●

10一1 ●ふーすけ先生の葛藤● 昼休み、橘はいつもの人気のない喫煙場所に居た。 学校へと向かっている車中で、由宇に昼食はどうするのかと聞くと「いつも食堂かコンビニ」と返事が返ってきて、心がモヤモヤした。 いつも、というのは、恐らくかなり昔からのように推測される。 昨晩目の当たりにした由宇の姿が、頭からずっと離れない。 熟睡しているはずの由宇がむせび泣き始めて目が覚めた橘は、ジッと様子を窺っていた。 物語付きの悲しい夢でも見ているのかと、起こさずに幼い寝顔を見ていたら、ついには「やめて」と叫び出したため慌てて揺り起こしたのだ。 驚いた。 瞳を瞑ったまま、顔を歪めて手足をジタバタさせ始めた由宇を抱き締めてやると、どんな夢だったのかすぐに検討が付いた。 小さく、「やめてよ父さん…」と嘆いたからだ。 両親のいざこざによる悪感があそこまで由宇の心を侵食しているとは夢にも思わず、単に揉めているだけだろうと軽く考えていた橘は直ぐに動き出した。 園田一家の件よりも重要事項となり、年内どころか二週間でケリを付けてやる。 そのためには、由宇の父親について調べてみる必要があった。 父親の失墜にて由宇に小さな嫌がらせをしていた市川の件の時から、怪しいと睨んでいた男……現在町で一番大きな総合病院の外科部長の椅子に居る由宇の父親は、どうもきな臭い。 「あ、俺だけど。 調べてほしい奴がいんだよ。 ………」 通話を終え、タバコに火を付けた橘は、フーッと煙を吐いて真っ青な空を見上げた。 雲一つない、快晴。 見事な秋晴れだ。 その空のキャンバスに、夕べと朝の悶える由宇の姿が映し出され、危うく勃起しかけた。 夜泣きのせいか少しばかり赤らんだ目元にそそられてしまい、朝勃ちしていたからと理由を付けてささやかに犯してしまった。 夕べもそうだが、あんな事までするつもりは無かったのだ。 変態余罪野郎に触れられているのを見てカッとなったのも、 露天風呂で透き通るように真っ白な肌に欲情してしまったのも、 具合が悪いからと狸寝入りする寝顔にムラムラしてディープキスを仕掛けてしまった事も、 どれも橘の意図するものではなかった。 自分でも訳が分からないほど筋の通らない事をベラベラ喋り、尤もらしく並べ立てて言葉を紡いではみたものの、元々頭は悪くない由宇はひどく困惑しているようである。 橘自身もそうなので、由宇の方がその度合いはきっと大きいはずだ。 だが橘にも、なぜ由宇を見ると思ってもいない事をスラスラ言えてしまうのか、理由がよく分からなかった。 幸せにしてやる。 俺だけだと言え。 俺の事だけ考えてろ。 熱烈に、キスを交えてそんな勝手な台詞を口走ったかと思えば、 期待はするな。 俺は優しくなんかねぇ。 幸せにはしてやるけど俺がそうするわけじゃねぇ。 …と突っぱねてしまいーーー。 説明しろと由宇に吠えられる度にはぐらかしていたが、橘自身も、突然襲ってくる独占欲に困惑しているのだ。 説明など出来る訳がない。 ギリッとタバコのフィルターを噛み、今日は何だか美味しく感じないそれを携帯灰皿の中へ捨てた。 ポケットの中でスマホが振動し、ほんの数分でもう調べが進んだのかと画面を確認すると、相手は舎弟からではなかった。 「…はいはい?」 『相変わらず軽いな。 歌音の件どうなったよ』 電話の向こうで笑っているのは、樹だ。 総長時代の面影が一切無くなっている現在、彼は芸能事務所のマネージャー職に就いている。 歌音とは従兄弟同士である樹とは、幼少時代から家族ぐるみで付き合いがあった。 樹の独り暮らしの住まいが歌音の実家のすぐ傍らしく、血縁で、しかも橘の婚約者で、ともなれば気になるらしい。 「歌音とエロ親父は一ヶ月引き離して様子見だ。 てか歌音の親父さんに結婚急かされてる」 『そうだろうな。 もうやっちまえば? その方が話早いだろ?』 「いやー…なんか踏ん切りつかねー」 『はぁ? ついこないだまで結婚早めても問題無いって言ってなかった?』 「言ったっすよ。 言ったけど、なんかなー」 『お、手当たりしだいの風助にも気になる女が出来たらしいな』 「まぁそんなとこ。 樹さんゲイだったよな?」 『あぁ、そうだけど。 ……何だよ、相手男? 今夜時間作るから会うか?』 「いいんすか? 樹さんの話聞きてぇ」 『分かった、遅くなってもいいならメシ行こう。 俺二十二時まで局から動けねぇんだよ』 「俺も多分遅くなるからその方がいい。 用事済ませたら連絡する」 『了解』 じゃ、と手短に返事をしてスマホをポケットにしまうと、ガムを一粒取り出して噛んだ。 口の中いっぱいにミントの味が広がり、気持ちがいくらか落ち着く。 樹は昔からゲイである事を公言していて、五年もの間、数十名もいる暴走族の総長として君臨していたが、その間もとっかえひっかえ可愛い系の男と遊んでいた。 本気にはならねぇ、と豪語していた通り、橘と同じく特定の相手を作ってこなかった樹の話が果たして参考になるのかは分からないが、橘が抱える謎のモヤモヤを少しでも払拭したい。 入学式当日の幼顔だった由宇には何の情も湧かなかった。 ただ、助けを求めるような寂しげな背中に引き寄せられたのは確かだ。 先程、教壇から由宇を見詰めていると、視線を感じたのか顔を上げた由宇と視線が合い、お互い無表情のまま数分もの間見詰め合った。 少しずつ頬が赤くなった由宇の方から視線を外された時、教師である事を忘れて由宇のもとへ歩んで「なんで逸らすんだよ」と顎を取りたい衝動に駆られた事など、……誰にも言えない。

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