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11一5
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由宇の自宅前に到着するギリギリまで笑い続けていた橘の笑顔を、由宇はそれこそ穴が開くほど見詰めていた。
(ふーすけ先生がこんなに笑ってるの初めて見た……カッコいい…)
もはや橘の事を色眼鏡でしか見られなくなっている由宇にとっては目に毒だった。
冷たい橘に戻ってしまっていたのに、真琴の存在のおかげでいつもの橘がずっと居てくれている。
あれだけ嫌だった「ポメ」という愛称を久々に呼んでもらえただけで、舞い上がってしまった。
きっかけが何であれ、……嬉しかった。
「やば。 涙出てんじゃん。 ティッシュ取って」
目尻を指先で拭っている橘がダッシュボードを指差した。
超貴重な橘の笑い声を聞けて良かったものの、やはりここまで爆笑するのはちょっとどうかと思う。
真琴は少々面倒くさい人物かもしれないが、真摯な想いが本当だったら失礼にあたる。
「そんな笑う事じゃないだろっ。 はい、ティッシュ。 二枚でいい?」
「そこのガムも。 二つな」
「………え、…二つって…」
ガムも、と言われた段階で「はいはい」といつものボトルを開けていた手が止まる。
二つ、という事はもしかして………。
(へっ? 嘘…っ、マジでっ? こんな急に…!? こ、ここ心の準備が…!)
この流れはもしや…と、緊張と期待が渦巻いて動揺した由宇が、震える指先でガムを二粒取り、橘に手渡す。
このガムキスから由宇の狼狽は始まったと言っても過言ではないので、いくら冷たくされても悪魔な橘が戻ってきている今は「もしかして」があるかもしれない。
その動向を見逃すまいと凝視していると、橘はガムを二つとも口に入れて咀嚼し、エンジンを切った。
由宇の熱過ぎる視線を、橘は絶対に気が付いていたはずだ。
(なんだ………キスしないのか…)
ーーーそれもそうだ。
もう目の前に由宇の自宅があり、辺りは薄暗いと言えど住宅街である。
誰が見ているか分からない場所で、『好きになるな』と言った相手に気を持たせるような事はするはずない。
ちょっとどころかかなり期待してしまっていた事に気付き、何もかも橘が「駄目」だという事をしてしまっている自身に溜め息を吐く。
訳が分からない橘には、何も望まない方が後で苦しまなくて済むのに……由宇はなかなか懲りない。
(……なんですぐ期待しちゃうかなぁ……俺のバカっ)
由宇は自分を叱咤しながら、気落ちしたのを悟られまいと助手席の扉を開けようと、橘から視線を逸らした。
「…っ? ……んっ」
ふと伸びてきた長い指先が横目に見えたと思った矢先、次の瞬間には唇を塞がれていた。
(えっ……? 何っ? なんで…っ? えっ?)
唇を押し当てられただけではない。
戸惑う由宇の口の中へ咀嚼したガムを入れられ、そのままくるくると舌を絡ませられた。
数秒の戯れの後、最後に由宇の下唇をぺろっと舐めて離れていった橘の顔を、呆然となって見詰める。
(………こ、…こんな事しといて、……好きになるな、なんて言うのかよ…!!)
橘のチグハグ発言にも、よそよそしく冷たい態度にも、由宇は必死で慣れようとしていたのだ。
あらぬ期待を持たせてしまったかもしれないが、俺を好きにはなるな。
きっと橘はそう言いたかったのだと思う。
婚約者がいる限り、先生と生徒である限り、……自分が男である限り、望みはないものだと由宇は諦めていた。
「…なん、なんで…っ、なんでこういう事すんの!? 俺もうどうしたらいいか…っ!」
視界がぼやけてきた。
由宇の瞳には涙がたっぷり溜め込まれ始めていて、橘の視線から逃れるように前を向く。
だが橘に顎を取られて上向かされ、またその意地悪な瞳に見詰められる羽目になった。
「お前がガム欲しそうにしてたからだろ」
「はぁ!? そんなわけないだろ!」
「冗談だ。 ……由宇、俺を好きになるな。 お前もツラいかもしんねーけど、俺もツラいんだよ」
「……っ………?」
「とりあえず今日の事が済んだら、お前は帰りたがってたここに帰ってきていい。 明日以降、放課後の勉強は見てやるけど他の接触は一切しない。 個人授業も二学期いっぱいだと思え」
「…何? ………先生、どういう…」
「俺を正義で居させてくれ」
な、と困ったように唇の端を上げた橘が、由宇の頭を優しく撫でた。
自分と由宇のシートベルトを外し、橘はさっさと車を降りてしまう。
(………ねぇ、先生……俺、先生の事が好きだよ。 勝手に好きでいる事も…ダメなの…?)
口の中でコロコロっと動く粒ガム二つ分の塊は、小柄な由宇には大きく、そして辛く感じた。
そのせいで、より涙を誘っている気がする。
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