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14一6
橘の唇が冷たい。
ひやりとした感触から伸びてくる舌は、以前からこれほどまでに由宇を求めてくれていただろうか。
由宇の頬に触れた手のひらも冷たい。
橘は今こんな事をしている場合ではないと分かっているのに、不謹慎ながらこの冷たささえ心地良かった。
より深く交わろうとする橘の舌が由宇の臆病な舌を捉えると、逃すまいと追い掛けてくる。
もっと追い掛けて。
捕まえていて。
(先生……っ! 先生………っっ)
唾液がぶつかる粘膜音が由宇の耳に届いても、橘からの熱烈なキスには抗えるはずもなかった。
血まみれの左手は由宇に触れないように窓枠に置かれていて、そんな些細な優しさにもキュンとする。
橘の首元に腕を巻き付けて、由宇も下手くそながらに夢中で彼の愛しい舌を追った。
(…っ先生と……キスしてる……! 俺、先生の事好きでいて…良かったんだ……!)
由宇の中では、橘の事はすでに諦めのついた人だった。
今日を最後に、片思いはやめよう。
橘への想いを募らせて、勝手に好きの気持ちを燃やし続けるのはいい加減やめよう。
どんなに熱っぽい視線を向けられても、由宇が好きだと言ったハーフアップを毎日してくれていても、自惚れちゃいけない。
無知で幼い由宇では手の届かない人だったのだと、忘れなくてはならない人なのだと、由宇の心に宿った恋火を消し去る寸前だった。
意地悪なのに優しい、天邪鬼で口下手な橘の事がこんなにも好きなのに、燃え上がってしまう前に消さなくてはいけないと思っていた。
(好き……先生…、好き……っ)
想い続けていて、良かった。
橘から求められる事が嬉しくて嬉しくて、なかなかキスをやめられない。
一年も放っておかれたけれど、片思いの楽しさや切なさを噛み締められたから、殊更に橘への想いが溢れてきて止まらなかった。
橘の正義を守り通せた、そしてその正義を貫いた後に、由宇をまた見てくれている。
───こんなに嬉しい事はない。
「……あのー風助さーん。 俺バッチリ見えてるんすけどー」
「見たけりゃ見れば」
ルームミラー越しに拓也の苦笑交じりの声に、由宇は慌てた。
飄々と返す橘の気が知れないが、ここが拓也の運転する車内である事も忘れて、橘の唇を夢中で感じてしまっていた由宇も人の事は言えない。
「んーーっ! 先生…! んむっ…!」
拓也の手前、キスをやめようと顔を背けようとしても輪郭を捕らえられていて避けれなかった。
しつこいほどに舌を絡ませてくる。
橘は時折唇を離して、由宇の瞳を二秒ほど見詰めてニヤッと笑い、また舌を食むを何度も繰り返した。
「…………由宇」
病院が目前に迫っていた。
ようやく離れてくれた橘が、由宇の体にのしかかり耳元で囁いた。
重い、と文句を言うのを躊躇ったのは、橘が力尽きたかのようにくたりと由宇に覆い被さってきたからだ。
「……っ…ん、っ…?」
「……ごめんな…」
「え、先生……? 先生…っ? ふーすけ先生!」
由宇の体の上で、橘は動かなくなった。
息はしている。
呼吸も安定している。
ただし、意識はない。
「た、拓也さん! 先生が…!」
「風助さん、やっと飛んだ? もうすぐ病院着くから大丈夫」
「やっと飛んだって…」
「チワワちゃんも見ただろ? あんな顔色してて飛ばない方がおかしいって。 よっぽどチワワちゃんとチューしたかったんだろうな」
拓也の言葉に赤面する。
告白の返事は?と聞いてきたのは、キスしたかったから…なのか。
恥ずかしくて、照れくさくて、言い表せないムズムズ感を覚えて体の芯から火照ってしまう。
(先生……好きだよ、……好き…)
重みで潰されてしまいそうだったが、この重圧すら愛おしかった。
広い背中を撫でていると想いが溢れて止まらない。
口の減らない悪魔を好きな気持ちが、由宇の目の奥を熱くさせた。
(…………あ…)
窓枠に置かれていた左腕がたらんと滑り落ちた。
橘が止血をするために自分で破いていた袖口を、何気なく見る。
すると左の前腕に赤黒い殴打痕を発見した。
これは明らかに、あの木刀をまともに受けた証だ。
「拓也さん! 先生、手のひらだけじゃなくて左腕もヤバイかも!」
「左腕?」
「木刀を受け止めてたんです! この色…もしかしたら折れてるかもしれない…っ」
「……そっかー。 左腕に、左の手のひらね…。 風助さん、ガチで先生やってんだなー」
「えっ?」
こんな時に感心なんかしなくていい。
内心で憤る由宇は、呑気に微笑む拓也とルームミラー越しに目が合った。
程無く病院の駐車場に到着し、運転席から降車した拓也が後部座席のドアを開けて橘の腕を見てまた微笑む。
「風助さん右利きだろ? 右手使えなくなったら黒板に文字書けないじゃん」
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