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18一10

 寒空の下、橘がジャージ姿でポケットに手を突っ込み、人気のない規模の小さめな公園の真ん中で電子タバコを吹かしている。  橘に「ジャージもしくは体操着を持ってこい」と言われていたので、来る前から嫌な予感はしていた。  土日はセックス三昧かと恐れをなしていた由宇だったが、由宇の両親…特に以前より変化が著しい母親が心配するといけないからと、帰宅させられた。  まだ未成年だという事と、家族が纏まりつつある中で由宇を独り占めするのは心証が良くないとの事だ。  もちろん、橘の。 「…先生、マジでやるの? 寒いよーっ」  冬用の体操着を着ていても、コートを羽織る事は許されなかったので由宇は自身を抱き締めてガタガタと震えていた。  件の橘はというと、寒さなど微塵も感じていない素振りで悠々と煙(水蒸気らしい)を吐き出し、真顔で公園内に生い茂る緑を見詰めている。  昼休み、橘からいつものようにメッセージが来たかと思えば前述の通りで、放課後は体操着を持って彼の車で待ち合わせした。  由宇を後部座席に促し、車内での着替えを命じ、二十分ほど車を走らせた橘は、説明もなく由宇の手を取ってこの場に連れて来たのである。  何をする気なのかなど、ジャージ姿で車を運転していた橘を見てすぐに分かった。 「走れば温かくなんだろうが。 今日は初日だからとりあえず公園外周を二周したら終わりだ」 「二周!? 嫌だーっ、帰りたいーっ」 「うるせーぞ。 俺様が気を利かせて特別個人授業してやんだから、感謝しろよ」 「………頼んでないもん…」 「あぁ? なんか言ったか?」 「言ってません!」 (睨むなよぉ〜っ! 体育祭に出るって約束はしたけど、こんな寒い時期から特訓しなくていいと思うんだけどー!)  走れば温かくなるのも分かる。  ランニングに付き添ってくれるのも、体力と持久力がまるで無い由宇のためだという事も分かる。  だが由宇は走りたくない。  このままずっと、永久に走る機会はないだろうと悦に入っていたのに…橘はやけに張り切っている。  体育祭でしか見られない貴重な橘のジャージ姿は好きだけれど、今は人生で一位二位を争うほど嫌なランニングを強いられようとしているので、不満しか抱けなかった。  とても、柔軟体操にも身が入らない。 「俺のペースに付いてこい。 今日はマジで徒歩かっつーくらいで走ってやっから」 「………じゃあいっその事、徒歩にしない? 散歩〜散歩にしよ」 「それじゃただのデートじゃねーか」 「デ、デート…っっ」  さらりと言った橘の台詞に、由宇は分かりやすくポッとなった。  土日は丸々会えなかった分、今日の数学の授業と放課後の個人授業が楽しみで仕方無かったので、思わぬところで恋人の実感を噛み締めさせてもらえるとはラッキーだった。  寒さが和らいで、由宇はその場でヘラヘラしながら橘を見上げる。 「ニヤつくな。 それはまた別でじっくりしてやる。 今日はランニングな」 「別でじっくり…! どこ行く? どこ連れてってくれる!?」 「話を逸らすな。 お前は頭の回転早えから厄介だな。 俺はその手には乗らない」 「ちぇっ」 「ちぇっ、ってマジに言う奴初めて見たわ。 おら、行くぞ」 「え、もうっ? …待ってよ先生!」  教師モードの橘は、ドライに由宇を見てから早速走り始めてしまった。  由宇も慌てて後を追う。  デートの話をすれば、ランニングから意識をそらせるという由宇の思惑は、あえなく失敗に終わった。  由宇も頭の回転は悪くないが、橘がその上をいくので当然の結果である。 「…っ、このペースで走るの、キツイよっ」  橘の隣で必死にペースを合わせようとするが、半周辺りで早くも力尽きそうになる。  涼しい顔でほとんど息を切らしていない橘は、由宇の様子を見て若干ペースを落としてくれた。 「呼吸を乱すな。 酸素をな、口で吸って鼻から出すか、鼻で吸って口から出すか、走りながら自分で楽な方を見付けろ。 腕の振りと歩幅は小さくな」 「呼吸って、どっちも、使うの? 鼻から、だけかと思った」 「それだと終盤キツくなる。 口呼吸だけも色々リスクあってよくない。 半々がベスト」 「そうなんだ…!」 「これはお前の体力と持久力を付けるためにやるんだからな」 「うん、それは分かってるんだけど」 「走れるようになる事が目的じゃない。 でもな、こうやって…毎日っつーわけにはいかねぇけど、週に何回かでも走ってりゃ恐怖心もじわじわ無くなるんじゃね?」 「あ………」 「手っ取り早く家の周り走れって言いたいとこだけど、それは近所の目あって嫌だろうしな。 来れる日は俺が付き添ってやるから、面倒がらずに頑張れ」 「………うん、! やれるだけ、やってみる…!」  由宇に合わせて徒歩に近いほどのゆっくりとしたペースだと、橘はさぞ走りにくいだろう。  それでも、そこに関してはまったく文句を言わなかった。  橘らしい不器用な優しさをこうして垣間見る度に、好きの気持ちが膨らんでいく。  何年も遠ざかっていたせいで走る事が怖い由宇に、橘はどこまでも付き合うと意地悪に笑ってくれた。  体育祭に参加する事だけではなく基礎体力から面倒を見てくれるのであれば、日常生活にも大いに良い影響をもらたしてくれそうだ。 「フッ……可愛い」 「えっ……っ」 「ニヤつくなって。 お前分かりやすー」 「先生…っ、その意地悪な言い方やめろよ!」  照れてニヤついた由宇と同じく、橘は由宇を揶揄ってご満悦だ。  行いと言動が伴わないのは、相変わらずだった。

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