182 / 196

19一2

 老舗の和菓子店へ一直線だった橘は、店の者と親しげに会話をした後、桃ゼリーを三つ購入していた。  それは、見た事もないほど高級感溢れるデザートで、恐らくセレブしか口にしなさそうな代物だ。  一つ売りだったそれの値段を見た由宇は三度見くらいしてしまったが、橘御用達の店ともあって、従業員の対応が神掛かっていた。  橘が店の者と話している間、由宇は『大きな桃を丸ごと一個 贅沢に、ふんだんに、使用しております。瑞々しい桃本来の美味しさを存分にご堪能下さい。』という、魅力的な説明書きを熱心に読んだ。  桃を二分割し、身の部分をくり抜いたそこに桃果汁がたっぷりと混ぜ合わされた桃ゼリーが、その身にぎっしりと詰め込まれている。  特に甘党というわけではない由宇でも、その説明書きだけで口の中が唾液でいっぱいになり、生唾をゴクッと飲み込むほど美味しそうだった。 「………怜の家に行くって言ってくれたら良かったのに…」  マンション内のエレベーターの中で、由宇は唇を尖らせる。  前々から説明の足りない男だと思っているが、今日も変わらず例に漏れない。  買い物とはその桃ゼリーのみで、そそくさと高級デパートを出た橘が向かった先は怜とその母親が住むマンションだった。 「言うとまた「なんで?」口撃が始まんだろ」 「まぁそうだけど…」 「園田さんが全快したかどうか様子見に行かねーとな」  真顔の橘は、そう言うと由宇の頭をガシガシと撫でて、それから怜の自宅玄関前まで手を引かれた。 (こういう事サラッとしちゃうから怒れないんだよなぁー…)  さり気ないスキンシップが多くなった橘は、見た目がどれだけ悪魔みたいだろうと由宇を大事に思ってくれているのが伝わる。  何とも思わないどうでもいい人物に触れようとするなど、普段の彼ならば絶対に考えられないからだ。  ───ピンポーン。  橘がインターホンのボタンを押す。  ───……ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……。  相手からの返事を待たず、二秒後には連打が始まった。 いつかの由宇宅へもそうしていたのを思い出し、慌てて腕を掴んで止める。 「先生! インターホンはゲームのボタンじゃないよって言っただろ!」 「あ? いつ言った」 「去年! 俺ん家!」 「そうだっけ」  まったく…と呆れて橘を見上げても、飄々としていた。  橘の辞書に、悪びれるという言葉はないらしい。 「あら、橘くん。 どうしたの」  インターホンを連打された家主は、玄関の扉を開けてすぐ橘の顔を見付けて笑顔を見せる。  由宇はその人物の姿を見て驚愕した。  顔立ちから少しばかりキツい印象を受けるが、四十代半ばに見える小綺麗な女性はまさしく怜の母親だった。  心を病んでいる時にしか見た事がなかった怜の母親は、肌ツヤといい顔色といい表情といい、あの頃が嘘のように生気が漲っている。 (怜のお母さんだ…! そっくり!)  言わずもがな、怜は綺麗な母親似である。  のんびりなようで眼光鋭く周囲を常に気にしている、内に潜んだ野性的なオーラさえも似ている。  この活き活きとした女性が、じわじわと心を蝕まれて廃人となっていった姿を間近で見ていたであろう怜の苦悩が、今になってようやく理解できた。  怜にとってこの落差は信じ難いほど大きかったに違いなく、見るに耐えない、見ているのがツラい、と母親に背を向けていた気持ちがよく分かった。 「ちっす。 元気?」 「相変わらずね、あなたは。 …ほら、中に入りなさい。 あなたもどうぞ」 「は、はい…っ、お邪魔します…!」  面と向かって話をするのは初めてで、由宇はとても緊張していた。  通されたリビングはここへ泊まりに来ていた頃より整理整頓されていて、妙な感覚だ。  怜が居ないのも寂しくて、無意識によく知る扉をチラチラと窺ってしまう。  ドカッと足を広げて腰掛けた橘の隣にちんまりと座る由宇に、怜の母親は香り立つコーヒーをテーブルに置きながら優しげな笑顔を向けてくれた。 「ごめんね。 怜ってば今朝から居ないのよ。 明日の夕方に帰るんですって」 「え…っ、明日、ですか?」 「そうなの。 彼女でも出来たのかしら。 先月辺りから外泊が多くなったのよねぇ。 親としては気になるじゃない? 聞いてみても、「違う」って言い張るのよ」 (あ……もしかして真琴の事かな。 まだ「違う」って言ってるんだ…怜…)  怜の母親が由宇を知っていた事にビックリしたが、それよりも、怜が快復したばかりの母親を置いて外泊するというのにも盛大に驚いた。  拒否し切れずやる事はやっているのだから、いい加減認めてあげたらいいのに。  由宇は何度もそう言ってみるが、怜は断固として頷かない。 (お母さん放ったらかして年末年始に家を空けるなんて……そういう事じゃん) 「熱っ……」  苦笑しつつコーヒーカップに口を付けると、思いの外熱かった。  小さく呻いてカップをテーブルを置くと横から手が伸びてきて、長い指先が由宇の唇を拭う。 「冷ましてから飲めよ。 この湯気見たら熱いって分かんだろ」 「うぅ……っ」 「火傷してないか?」 「うん、たぶん……てか火傷って大袈裟な」 「心配してんだろーが。 ほら、見せてみろ」 「ちょっ……」  仏頂面の橘の指先が由宇の上下の歯をこじ開けて、口腔内をまじまじと観察された。

ともだちにシェアしよう!