練習の成果を発揮する時がきた。 　あれだけ毎週頑張ったのだ。 　橘のペースに合わせるのはまだ厳しいけれど、以前より確実に体力はついた。 　走る事にも、慣れてきた。 　呼吸が苦しいかどうかは心配してくれないが、事故による傷跡に関しては「痛くないか？」としきりに声を掛けてくれる。 　彼なりの優しさを目一杯感じ、毎日この三白眼を見なければ体の調子がおかしくなるほど、由宇の心は悪魔に染まっている。 「先生………」 「おら、もっと足上げろ」 「えっ…あっ……ちょ、っ無理だよ、これ精一杯なんだって」 「それが精一杯ってどうなんだ。 股関節の柔軟もメニューに加えねーとな」 「そんなぁ………」 　体育祭午前の競技が終わり、二人は校舎裏に居た。 　盗み聞きしている者が居れば、間違いなくいかがわしい現場に出くわしたとドキドキされるのかもしれないが、実際はそうではない。 　午後に控えた由宇達三年生による徒競走のために、橘から無理やり最後の追い込みを掛けられているのだ。 「ねぇ、先生っ、今こんなに走ってたら本番まで体力保たないよ！」 「そうだな。 これくらいにしとくか。 お前赤ん坊並みの肺活量だしな」 「一言余計だろ！」 「副担任に向かってその態度はなんだ」 「………いっいひゃいっ…！」 　由宇の頬をぶにっと摘んで、満足気にニヤリと笑う橘を睨み上げても、たちまちポッとなるのはもはやしょうがない。 　今年も無事、理系クラスから漏れなかった由宇は３一Ａに。 　残念ながら同じ理系クラスでも、怜と真琴とは離れてしまったが…由宇は薄情にもあまり寂しさを感じていない。 　なぜなら、副担任として教壇に現れたのは、誰あろう橘その人だったのだ。 　由宇のためにそこに居る顛末をさらりと告白してきた時は、喜びよりも「やっぱりか」と呆れたものである。 〜十二月中旬〜 　去年の今頃、新任である橘を担任に抜擢した校長の隣を自ら陣取った橘は、日本酒を素知らぬ顔でグイグイやっていた。 　例の一件があって以来、教育委員会に目を付けられた校長は橘を腫れ物を扱うようにして接してくる。 　自分に非があると分かってもらえているようなので、それには橘もあえて知らん顔をしていた。 『橘先生、お酒、お強いですね…』 『は？ キモっ。 俺みたいな若造に敬語なんか使うなよ』 『お、おぉ、すまんすまん』 　顔色も変えずに日本酒を飲み続ける橘に、校長は顔を引き攣らせて愛想笑いを向けてくる。 　橘はそんなものが見たくて校長の隣にやって来たわけではない。 　一度無礼を働かれた相手に尽くす礼儀など持ち合わせていないので、橘は胡座を組み替えて馴れ馴れしく目上の者と肩を組んだ。 『なぁ、去年俺に無茶ぶりしたの覚えてっか？』 『……無茶ぶりとは…！』 『二年目で右も左も分かんねーっつーのに、俺に託された生徒達は可哀想だったなー。 でもさ、俺も生徒達も超頑張ったおかげで、立派に全員の内申維持してるぜ』 『そう、そうだな。 ありがとう、助かっている…』 『あぁ、お礼なんていいから、来年３一Ａの担任やらせろ』 　校長に話したい事とはこの一点のみである。 　橘には、大切なペットを卒業まで見届けなければならない義務がある。 　弱味を握っているわけではないが、勝手に自滅した校長は橘に頭が上がらない事を把握済みで、半ば脅しのように声のトーンを落とした。 　しかし校長は、ビクビクしながらも「それは…」と言葉を濁す。 『三年生の担任はさすがに…！』 『さすがにじゃねーよ。 やらせろ』 『な、何故かね？』 『なんで理由まで言わなきゃなんねーの。 とにかくよろしくな』 『いやはや、しかしな、この学校では受験を控えた三年生のクラスを担任するには、教師にも基準というものがあるんだ。 よろしくと言われても、私にはどうする事も…』 　基準というのは恐らく「経歴、実績」であろう。 　わずか二年目の新米教師である橘には、学校の裏の規則に反する事までは望めない。 　一理あると納得出来るからだ。 　それならばと、橘は校長の空いたジョッキに日本酒をなみなみと注ぐ。 『ふーん。 じゃ副担任でもいい。 あ、あと三年に上がる理系クラスの選別も俺参加すっから』 『あぁ、それは去年もお願いしたからな、是非に！』 『話が分かる校長で良かった。 俺は限りなく黒に近いグレーなんで、そこんとこ間違えねーようにな』 『は、はは、…ははは……』 『下手な愛想笑いはいらねー。 まぁ飲めよ。 グイッと』 　ビールジョッキ三杯ほどで顔を真っ赤にしている校長に、なみなみと注がれた日本酒を勧める橘はまさしく鬼だった。 　この経緯を知った由宇の胸中は、さすがに「先生…♡」とはならなかった。 　あっけらかんとその忘年会の様子を告げてきた橘に、やめてやれよ…と苦笑した由宇は至極真っ当だ。 次回10/17 ０時頃