195 / 196
【おまけ】個人授業は放課後だけ?②
最近はすっかり見慣れたジャージ姿の橘が、出番もないのに運動場の中央に居る。
腕を組んで仁王立ちしている様に、周囲の生徒達は「橘先生が俺らを見張ってるぞ!」と口々にざわついていた。
軽やかな曲と共に駆け足で入場した三年生一同は、整列して地べたに腰掛ける。
由宇も前後左右との距離を詰めつつ、陽で温もった地面にお尻をつけた。
最初は女子生徒が走る。 …四名ずつ、ヨーイドンで、トラックを一周も。
由宇は事故に遭ってから三年間、テントの下で涼しげに生徒達が汗を流す姿を見守ってきたため、この感覚が久しぶり過ぎて早くも緊張に目眩を起こしそうだった。
(うわぁ…下級生も先生達も誰だか知らない親達もみんな見てるじゃんー…こんな中全力疾走するって、恥ずかしい以外ないよぉ…っ)
走る事への恐怖は無くなっている。
その代わり、場馴れしていない由宇の心がくじけそうで、その度に中央の悪魔に視線をやって落ち着かせていた。
橘の謎の見張りは、生徒達も教師達も何も突っ込む事が出来ずに慄いているが、由宇だけは安心感でいっぱいだ。
由宇の方を見てはくれないけれど、ゴールテープ付近を見詰める視線は紛れもなく由宇へのエールを感じる。
頑張れよ。
あんだけ練習したんだから、大丈夫だ。
ビリでも何でも走りきれ。
ゴールで待っといてやるから。
旧校舎は真琴に見張られる可能性があるので、本校舎の裏で珍しく優しく励ましてくれた橘と、由宇は熱い抱擁を交わした。
技寸前のキツい抱擁に気を失いかけたが、由宇は橘の激励の言葉にしっかりと頷き、これまでの数カ月を振り返って自信を持った。
チャイムが鳴っても離してくれなかった橘の背中を叩くと、「何だよ」とイラッとされたけれど…それも笑顔で交わせた。
「はい、次!」
女子生徒の徒競走がいつの間にか終了し、男子生徒の番になった。
第一グループ四名がスタートラインに立つ。
スターターの教師の掛け声と同時に四名は構えに入り、空に向かって専用のピストルが打たれると各々一斉に走り出す。
(ガチだ…! 授業の時は力抜いてたのかみんな…!)
本番ともなると、男子生徒達は己のプライドと対抗心に燃えていて、見た事もないほどの力走を見せていた。
思春期ならでは、女子生徒達へのアピールもあるのかもしれない。
(あっ、怜だ! …頑張って、怜!)
怜とはクラスが離れてしまったものの、何日かおきに必ず連絡は取り合っている。
二年前はほんの少し見上げるほどだった怜の背丈は、今や百八十四の橘に迫る勢いだ。
由宇は高校入学から一センチずつ伸び、現在百六十一センチ。 ……今年は伸び悩んでいる。
体育座りをするとちんまりとした球体になるため、橘によくその球体のまま運搬される事もしばしばある。
「…………おぉっ…」
怜は女子生徒達の黄色い声援を浴びて一着でゴールした。
キャーッと騒がしい周囲の中、次のグループで走るらしい真琴をチラッと見た怜が、薄く微笑んだ気がする。
その後、怜は由宇にも視線を寄越してきて、手のひらをヒラヒラさせてきた。
(あ………やっとうまくいってる感じ??)
由宇より背が伸びた真琴のデレた横顔を見ると、二人の関係向上を否が応でも期待してしまう。
口を出すのも野暮かと、由宇は二人については何も知らない。
だが進展があったのなら話を聞きたいし、「やっとか!おめでと!」とお祝いする準備なら半年前から出来ている。
(おっ、真琴は二位か! 速いなぁ…俺と同じくらいだったのに背越されたからなぁ…足長い分有利だよなぁ…)
見ているこちらが照れてしまうくらいの、怜と真琴の目配せを遠くから眺めていた由宇はハッとした。
何故か最後のグループである由宇は、徐々に視界が開けてきて、ついに順番が回ってきたのである。
「次、最終グループ!」
スターター教師のハツラツとした声にビクッと肩を揺らし、立ち上がってお尻についた砂を払った。
緊張してませんけど、の顔を保つので必死だ。
中学二年以来の、徒競走本番。
最後のグループ故に全視線がこちらに集まっている。
運動場中央からも、熱視線が飛んでくる。
背の低い由宇はインコースだが、残りの三名は練習の時から本気を出していたのか、いつも由宇はビリだった。
けれど橘は、授業中にも関わらず教室の窓から由宇が徒競走の練習をしているところをすべて見てくれていて、「頑張ってたな」と褒めてくれた。
(……ビリでもいい。 怖いからってビビったまんまじゃ、これから先何にも出来ないよね。 ……頑張ろう。 俺、最後まで走り切るよ、先生)
スターターの掛け声に、由宇は見様見真似で構えてみる。
そして、ピストルが放たれた。
(うぅっ…走るのは大丈夫だけど…見られてるのがちょっと…っ)
三名から少し遅れて走る、訳あって下は冬用の体操着を着ている由宇は目立ってしまっていた。
幾多の視線と味わった事のない緊張から、うまく走れていたはずの由宇の足がもつれた。
(うわ───っっ)
───ズシャ…っ…。
あっ!と思った時にはもう遅く、由宇は地面にうつ伏せになって転倒していた。
「由宇!!」
遠くで怜の声がした。
駆け寄ってくる足音も聞こえた。
顔面から転んだせいで鼻の頭を擦りむいたが、そんな事よりもだ。
視線を感じる。
たくさんの視線が、転倒した由宇に向けられている。
恥ずかしい。 恥ずかしい。 恥ずかしい。
このまま二度と起き上がりたくない。
転倒して擦りむいた鼻先と腕が、ヒリヒリして痛い。 視線も、声援も、痛い。
駆け寄って来た足音が、微動だにしない由宇の間近で止まった。
「最後まで走り切るんだろ、由宇」
次回おまけ最終話 10/18 0時頃
ともだちにシェアしよう!