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【おまけ】個人授業は放課後だけ? 終
(無理だよ! コケるなんて予想もしてなかったもん……! 痛いよ先生っ…すぐそこに居るのになんで見てるだけなんだよ…っ、抱っこしてここから連れ出してよ…!)
………たくさんの温かい声援が聞こえてくる。
由宇の事を知っているクラスメイト達も、知らない生徒達も、教師陣も、「頑張れ」と無茶を言う。
どの体育祭の記憶でも、必ず一人はこうして転ぶ生徒が居た。
転んだ生徒は顔を真っ赤にして注目される羞恥に耐えて立ち上がり、見事に走り切る。
しかしその後はそそくさと列に紛れ込んで気配を消していた。
今、その生徒達の気持ちが痛いほど、この上なく痛いほど、よく分かった。
降ってきたのが大好きな人の声でも、由宇にはそんな勇気はない。
由宇は転んだ格好のまま、ピクリとも動けなかった。
「由宇」
橘がしゃがんだ気配がして、それでも顔を上げられない由宇は嗚咽を漏らし始めた。
───嫌だ。 顔を上げて立ち上がったら、ゴールまで走り切らないといけないではないか。
この運動場に居るすべての者達からの視線を集めたまま、走り切る事なんて出来っこない。
(出来ないよ………痛いよ……先生…っ)
「このままここでそうしてても、注目浴び続けるだけだぞ。 由宇、俺との約束はどうした」
「……………っ」
「立て。 クビ覚悟の大サービスしてやっから」
「……………っ?」
(………クビ覚悟の大サービス?)
恐る恐る顔を上げると、橘は由宇に向かって左手を差し出していた。
傷は癒合しているものの、痛々しい傷跡は未だしっかりとその手のひらには刻まれている。
(…先生も一緒に…走ってくれるの……?)
「早くしろ。 俺、長時間太陽の光浴びると溶けんだよ」
ドラキュラか!と頭の中で突っ込みを入れながら、由宇は差し出された左手を取った。
本当はこの場から連れ出してくれるのが一番理想だけれど、橘はそれを良しとはしないだろう。
握り返してくれた橘の握力が物語っていた。
走り切らないと、今日まで何のために頑張ったのか、橘との約束を反故にするつもりなのか、そんなもの意味がないぞ、……見下ろしてくる三白眼がそう訴えかけてきた。
「ったく。 世話の焼けるペットめ」
手を繋いだまま、橘にリードされる形で四十メートルほどを走る。
何せトラック半周辺りで転んでしまったので、先が長かった。
「うっ……先生、めっちゃ恥ずかしいよぉ…」
「こんなもん、頑張れって言ってる奴の記憶には残んねぇくらい些細な出来事だ。 恥ずかしいって気持ち引き摺るのはお前だけ」
「……………っ」
「俺には恥ずかしいなんて感じた事ねぇからお前が真っ赤になってる気持ちが分かんねー。 ……こっからは一人で走れ。 ゴールで待ってる」
「えっ、ちょっ…!」
声援にかき消された二人だけの会話に、由宇の羞恥も薄れかけたところで無情にも手を離された。
残り十メートル。
振り返る事なく橘はゴールの先まで走って行ってしまった。
しかしここで立ち止まったら、注目を浴びる時間が長くなる……その思いだけで、由宇はひとりで走った。
───走り切った。
「はぁ、はぁ…っ」
由宇のゴールを見守っていた周囲から、大袈裟にも拍手が沸いた。
恥ずかしい。 ゴールしたのに、まだ恥ずかしい。
トラックを半周走ったところでお手本のように転んで、なかなか立ち上がらなかったためにさらに注目を浴び、小さな子どもの運動会のように橘と手を繋いで走った事でさらなる視線を集めていた由宇は、温かい声援と拍手も気恥ずかしくて素直に受け止められなかった。
「クビ覚悟の大サービスその二」
「えっ? わわ…っ」
列に戻ろうとした由宇の体が、ふわっと宙に浮く。
ゴールで由宇を待ち構えていた橘によって、全校生徒、全教師の目の前で禁断のお姫様抱っこをされていた。
マイペースな橘はそのまま誰にも何も告げずに、由宇を抱いたまま校舎内の保健室へと向かう。
「先生っ、みんなの前であれはマズイんじゃ……痛っ」
固い丸椅子に腰掛けた由宇の鼻先がオキシドールで消毒され、綿球で軽く水分を拭き取ったあと絆創膏をペタリと貼られる。
手当てをしてくれている橘の表情は、ネクタイを結び直す時よりも険しい。
「クビ覚悟の大サービスっつったろ。 あとどこ怪我した?」
「ダメだよクビなんか! …ここ痛い」
「ん」
擦りむいた右肘を見せると、橘はそこも鼻先と同様の処置をし、ピンセットを置いた。
じわっと由宇を立ち上がらせて、きちんと力加減された橘らしからぬ甘やかな腕にそっと抱き寄せられる。
「誰が心配かけろっつった」
「…心配……?」
「なかなか起き上がらねぇから脳しんとうでも起こしたのかって焦ったじゃん」
「あ……いや……」
「走り切ったの、偉かったな」
「……恥ずかしかったよ…。 …先生が手引っ張ってくれなかったら、……くじけてた…」
「今日だけじゃない。 これから先も俺がすべてにおいてお前を引っ張ってやる。 最後まで走り切れって言った意味、分かるか?」
由宇は橘を見上げて小さく首を振った。
ひとりでゴールさせた橘の本意は、単に「ビビるんじゃねぇよ」という副総長メッセージかと思ったのだが───。
上向いた由宇の両頬を取った橘は、悪魔の微笑を浮かべていなかった。
「お前が俺に付いて来られなかったら、引っ張っても意味ねーからだ。 泣き虫は取っといていいけど、弱虫は捨てた方がいい」
「……弱虫を捨てる……?」
「お前は元気にその辺走り回って、怖いもの知らずで居たらいい。 理不尽な事は俺が根こそぎ排除してやる」
真剣な眼差しの奥に、男気溢れる彼らしさが光っていた。
(……逃げ出したいって思っちゃったの、見抜かれてたんだ……)
手を離されて心細くその背中を目で追った、由宇の心の弱さを橘は見透かしていたのだ。
恥ずかしくてその場から逃げたくても、やり切らなくては練習の意味がない。
嫌な事から、逃げてはいけない。
今日逃げてしまえば、逃げ癖がつく。
目先の大学受験と今日の事をリンクさせるために、橘は由宇に体育祭参加を促したのではないかと、由宇はその時ようやく気付いた。
……恐らく転倒する事までは予測出来なかったであろうが。
「あ、そうそう。 弱虫克服と走れるようになった記念に一つ報告しといてやるよ」
「………何を?」
「三年前にお前を轢いた男、突き止めて成敗しといたから」
「─────!?」
物騒な悪魔のような発言に、由宇は大きな瞳を見開いて絶句した。
引っ張ってくれるのはありがたいが、とても穏やかではない事を聞かされた由宇の心境は……何とも複雑だった。
(恋人が副総長様で悪魔で、ついでにドラキュラなんですけど……)
由宇の大好きな大好きな恋人は、やたらとダークな肩書きが……多い。
── 終 ──
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