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   ***  華奢で(たお)やかな青年の背を見送り、弓良は来た道をひとりで歩く。  彼の人が生きていた事、また会えた事に喜びや嬉しさ、安堵に身を包まれながらも、背にあった温もりが消えた事にほんの少しの寂しさを感じていた。  そして、最後に景津が言い置いて行った言葉。 「羅刹の里…」  寝物語として母や乳母から聞いた事はあった。  京を見下ろす高山の奥。人が足を踏み入れるのを躊躇う、獣の領域。そこには人ならざる存在、『古き者』が集う里がある、と。『古き者』は争いを好み、血を啜り、肉を食らい、我欲を愛する恐ろしい存在だと。  もし、彼の人がその『古き者』だとするのならば―。 「若様!」  掛けられた声にはっとした。  大きく手を振りながら駆けて来るのは、侍者の喜兵衛だ。幼い頃より傍に居る、少しばかり気が強いが勤勉で心根の優しい男である。 「何故(なにゆえ)に毎度毎度、何も言わずに居なくなるのですか!」  以前にも申し上げましたよね!  語気荒く吼えた喜兵衛に、弓良は「すまん、すまん」と苦笑を漏らした。一度目は言わずもがな、景津を救出した時分の事だ。 「(しし)を追うておったのだ。稀に見る大きな猪でな、ついはしゃいでしもうた」  両腕を広げ、どれ程の大きさだったのかを説明する。空想の猪は、何とも厳めしい面構えをしている。  喜兵衛は呆れたように深く息を吐き出した。 「まったく…いつまでもそのようにやんちゃをしてもらっては困ります。あなた様はお兄様の支えでもあるのです。自覚を持っていただかなければ」 「わかっておる、わかっておる」  喜兵衛の言葉を遮り、弓良は苦笑を滲ませながらひらりを手を振った。だが、珍しくも喜兵衛は引き下がる様子を見せずに、真剣な眼差しで弓良を見つめながら「いいえ」と首を振り、その場に片膝を付いて頭を下げた。  ああ、嫌な予感がする。  弓良の表情が見る間に歪んだ。 「尊台の(しもべ)たる我が身ではございますが、敢えて献言いたします。御身はご自身で思うておられるよりも貴きもの、得難き宝なのでございます。常より主上が申されておられる通り、御身は主上の支えなのでございます。正しく、『柱』なのでございます」  幼き頃より刻まれしその言葉は、既に『呪い』と言って過言はない。  生きるも死ぬも、己の意思で決められない。決めてはいけない。例え不治の病に罹ろうとも。  抗いたくとも、抗う術の無い『呪い』である。 「…言われなくとも、分かっておる」  苦々しく重苦しい声で呟き、弓良は先程までの快活さを失くして深く息を吐き出した。 「…差し出がましい事を」 「よい。帰るぞ」  謝罪を受け取る気は毛頭無い。そう態度で示し、弓良は歩き出す。美しく、雅やかな『内裏』と言う牢獄に向かって。    ***  景津は弓良が歩み去って行った先を睨み付けるように、真っ直ぐ見つめ佇んでいた。遠くに感じ取るのは二つの気配。  隣に行儀よくお座りをしている白狼の神樂が、景津を見上げくうと喉を鳴らせば、景津は苦笑を浮かべてその頭を優しく撫でる。 「戻ろう」  景津が踵を返し歩き出せば、白狼も立ち上がり歩き出した。白狼には門衛と言う重大な仕事があるが、里の重要人物でもある景津を護衛するのもまた重大な仕事だ。  里の入口までの僅かな距離を警戒しながら進み、景津が外界との境界を跨いだのを確認すると、門の前に腰を下ろしてのそりと横たわり、重ねた前足に頭をのせた。  外界への警戒を始めた白狼を背に、景津は屋敷に向かって歩き出す。  歩く先々で住民達と挨拶や他愛のない会話を繰り返し、気が付けば屋敷はすぐ目の前。ふと、屋敷の門の前に、難しい顔をした母が佇んでいるのを見つけた。 「母上?」  口元で呟いただけの景津の声に、月の院は俯かせていた顔を上げ、我が子の姿に強張らせていた表情を安堵に緩めた。 「ああ、景津…何処に行っていたのですか…無事で良かった…」 「何かありましたか?川の下流へ散歩に行っていましたが…」  駆け寄って来た月の院は、景津の身に怪我が無いか肩や腕を撫で、深く息を吐き出しながら自分の顔に掛かる髪をそっと耳に掛けた。 「母上?」 「…いいえ、何かがあった訳ではないのです…少々、夢見が悪くて…」  頬に触れる指先はひやりと冷え、小刻みに震えている。景津は月の院の手を両手で包み、手の甲を温めるようにそっと撫でた。 「とりあえず中に入りましょう。私からもお話がありますゆえ」 「ああ…ええ、そう、そうですね…それよりも、そなたは何ゆえそのように濡れておるのです…?下流で沐浴でもして参ったのですか?」  怪訝な表情で首を傾げた月の院に、景津は視線を右に左に泳がして苦笑を滲ませ、それを含めて話をする旨を伝えると、「さあ、参りましょう」と月の院の手を引いて屋敷の門内へと足を踏み入れる。  向かったのは、母の御所。夜に訪った屋敷内の部屋ではなく、屋敷と同じ敷地内に宛がわれている邸宅だ。垣根で囲われた御所の敷地に足を踏み入れれば、侍女の瑚乃依が玄関先を箒で掃いている。  訪問者に気が付いた瑚乃依が顔を上げ、にこりと人好きのする笑みを浮かべて二人に頭を下げた。 「奥様、お帰りなさいませ。若様、おはようございます」 「瑚乃依、湯殿の準備を。この子ったら朝から水遊びに興じて…」 「母上…」 「ふふ、畏まりました。少々お時間頂きますゆえ、お茶でも飲んで体を温められていてください」  瑚乃依は掃き溜めていた枯葉を手早く麻袋に放り込むと、小走りで湯殿へと駆けて行く。景津と月の院は戸を潜って居間へと上がり、囲炉裏の傍へと腰を下ろした。  小さく爆ぜる炭火が、淡い熱を放ちながら自在鉤に吊り下げられた鉄瓶を温めている。鉄瓶の注ぎ口からは柔らかな湯気が漂い、中まで熱が回りきっている事を知らせていた。 「白湯で構いませんか?」 「ええ」 景津は炉縁の隅に重ねられている湯呑みを二つ並べ、傍に置かれていた濡れた手拭いを手に、鉄瓶を自在鉤から取り上げてそれぞれに半分ほど湯を注ぎ、手近の小さな甕から柄杓で水を掬い取って湯呑みの中へ注ぎ足した。 「有難う…」  いまだ憂いを払拭出来ない表情の月の院に湯呑みを差し出せば、ぎこちないながらもふわりと笑みを浮かべ湯呑みを手に取り微かに湯気を漂わせる白湯で喉を潤した。 「それで…何があったのです…?」  母の言葉に景津は今朝の出来事を話し始めた。話が進むにつれて月の院は驚きに瞠目し、揃えた指先で口元を隠した。 「まあ、なんと…恩人殿に会われたのですか…?で、その時に川に落ちた、と…」  母の呟きに、景津は頷く。 「彼の方はどうにも心根のお優しい方らしく、意識の無い私を門前に置き去りにした事を悔いておられたようで…」  もし、あの時、無理矢理にでも門を開けていたら。もしもの末路を二人は脳裏に描き、景津はそれを払うかのように頭を振り、月の院は鬼姫らしい酷薄な笑みを刷いた。 「その殿方は、良い判断をしましたね」 「ええ…そうですね…」  それに、と景津は話を続ける。 「彼の方の持ち物…あれはそれなりの地位に立つ貴族でなければ持てぬ代物でした」 「では、恩人殿は上流階級の者だ、と…?」  僅かに険しさを滲ませた表情で月の院が呟けば、景津は躊躇い無く頷いた。  里の者は『外ツ者(人間)』に対して、特別な感情は無い。だが、ある一定の『地位』に居る者を忌む。地位は力だ。力は弱者を、気に食わぬ者を踏み躙る。 「嗚呼…忌々しい…」  ざわりと空気がざわめき、肌が粟立つ。 「わたくしと我が君を引き裂いた、下種共が…」  月の院の琥珀の双眸が庭を睨み付け、妖しい光を灯す。  我が君。その言葉が、自分の父を指す事は明白だった。景津に父の記憶は無い。しかし、父母が百を数えるほどの昔に深く愛し合っていたのだと知っている。そして、ある貴族により引き裂かれてしまった事も。 「母上、落ち着かれてください」  膝の上で震える程強く握り締められた母の手に触れ、握る。母のもう片方の手がそっと重ねられ、月の院は意識的に深く息を吸い込んだ。 「…取り乱しました…もう、大丈夫です…」  微笑む顔は、いつもと変わらぬ慈しみを浮かべている。景津も微笑み返した。 「神樂が襲い掛かりませんでしたので、警告のみで帰しました」 「そうですか…神樂が…」  沈黙が流れようとした、その時。 「奥様、失礼いたします」  声と共に瑚乃依が廊下から顔を覗かせ、床に三つ指を付いて頭を下げた。 「湯の準備が整いました」 「有難う。さあ、早く体を温めて参りなさい」 「はい」  苦笑を浮かべながら母の言葉に頷き、景津は瑚乃依の後を追って部屋を出て行った。  立ち去る二つの足音を聞きながら、月の院は深く息を吐き出し、既に冷め切った水を飲み干した。  琥珀の双眸は虚空を見つめる。 「…背の君よ、嫌な予感がするのです。…景津を、わたくし達の坊をお守りください…」  呟きは誰に聞かれる事も無く、虚しく霧散するのだった。

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