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「あー…沙耶香に怒られる…」
最悪だ。
ぽたぽたと前髪から落ちる雫が、余計に冷たく感じる。
「っ、つ…」
立ち上がろうと体重を掛けた瞬間、じくりとした痛みが右足から駆け上がり、しまったと奥歯を噛み締める。
こちらが立てた水音に気が付いたのだろう。ゆったりと近付いて来ていた気配が、その速度を上げた。
逃げなければともがいている間に、頭上から影が差し込んだ。
「大丈夫ですか?」
穏やかな男の声が降り注ぐ。
事態を察したのか、景津が言葉を返す前に男は自身が濡れるのに構わず川底に足を付け、景津の傍に膝を付いた。
「動けますか?」
覗き込んで来る赤銅の双眸。切れ長の眦が、男の意志の強さを表している。
「あ…いえ…」
小さく首を横に振り、動けぬ旨を言外に伝えれば、男は「失礼します」と断りをいれて景津の体を軽々と持ち上げた。ふと漂った血臭とどこかで嗅いだ事のある『外ツ者』のにおい。
―まさか…?
恐々とした思いで、男の旋毛を見下ろす。
「違和感があるのは右足ですか?左足ですか?」
「…右でございます」
再び断りを入れた男の手が、景津の右足に触れた。ぴりっとした痛みに、景津は僅かに表情を歪める。
「痛みは強いですか?」
「そこまでは…」
「薬草を探して参りますゆえ、しばし足を浸けていてください」
男は狩猟の道具を景津が座る岩に立て掛けると、慣れた様子で川岸を駆けて茂みの中へと飛び込んだ。
「はあ…困った…」
鬼の血を引いているからなのか、身体能力や回復力は『外ツ者』よりも勝っているが、純血の鬼よりは劣る。鬼であれば挫いた程度なら歩行に支障はないが、やはり人の血が混じっているのだと実感する。
それでも、じくじくとした痛みは次第に和らぎ始め、ゆっくりとなら動かす事も出来るようになった。
今の内に逃げてしまおうか。
そろりと川底に足を付けようとした瞬間。
―がさがさっ
揺れた茂みに、そろりと伸ばした足を元の位置へと戻してしまう。
「お待たせしました」
心臓が早く脈打つ。気付かれないように息を吐き出し、男を見上げた。
「奥の方まで探しに行っておりました。痛みは酷くなられておりますか?」
男は再び川に踏み込んで膝を付き、景津の右足をそろりと自身の膝にのせた。
「…いいえ、今のところはそれ程…」
寧ろ、既に痛みは無いのだが。
しかし、それを告げる訳にもいかず、男の動作をただ見つめていた。
無骨で荒れた手指が、薬草を千切らぬよう器用に揉み解すと、懐から二枚貝を取り出した。貝を開くと共に取り出した小刀の先で中身を削ぐと手のひらにのせ、貝と小刀を仕舞った。手のひらにのせたものは塗り薬のようで、両手の体温で柔らかく溶かすと、景津の足首に塗り込め、その上に解した薬草を被せて、自身の袖を裂いた布で覆って結んだ。
「しばらくはあまり動かさず、濡らす事も避けたほうが良いでしょう」
「…有難うございます」
不意に男が「おや?」と首を傾げ、景津も同様に首を傾げて見せた。
「どこかで見たお顔かと思えば…以前、川を流れておられた人魚の方でございましたか」
にこりと笑む顔は、春の日差しのように温かい。
「に、人魚…?」
聞き捨てならない言葉である。訝しげに表情を歪めれば、男は慌てたように咳払いをし、「失礼申し上げた」と頭を下げる。
「あなた様は意識が無かったので、何と申し上げれば良いか…友と狩りをしている最中、この川のもう少し上流の方で倒れているあなた様を見つけまして…場所は違えど、まるで御伽噺の人魚のようだな、と…」
男の言葉に景津はきょとりと瞬き、ふっと噴出してしまう。
「ふふ、何をおっしゃるのかと思えば。お助け頂いたゆえ、ご存知かと思いますが私は男 でございますよ」
肩を震わせながら告げれば、男は先程とはまた違う柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん、存じ上げております。しかし、それでも尚、私はそう思うたのです」
嘘偽りではないのだろう。揺れる事の無い言葉に景津は笑いを収め、苦笑を滲ませた。
「ああ、そう言えば、礼を申しておりませんでした。その節は誠に有難うございました。お蔭様で生き長らえる事が出来ました」
景津が頭を下げれば、男は慌てた様子で「滅相も無い」と首を振る。
「いえ、礼など。…あなた様が何処より流れられたのか分からず、情けない事に諸事情があり我が家にも連れて行く事も出来ず…山奥で見つけた里へ捨て置いたようなもの。礼を言われると、心苦しい…」
眉尻を下げ、男は俯いた。その旋毛を見下ろしながら、景津は再び笑みを滲ませた。
「では、やはり礼を。あの里は確かに私の故郷。捨て置いたなどとんでもない。あの門を押し開くには相当な膂力を有します。門を開けようとして下さったのでしょう?」
「…力不足で、お恥ずかしい…」
顔は上げぬが、微かに見える耳と肌が朱に染まっているのを見て、本当に恥じているのだと景津は笑みを深めた。
「さあ、そろそろ顔を上げられてください」
景津の言葉に男は気まずそうながらもゆるりと顔を上げ、視線を泳がせながら立ち上がる。
「そう言えば、まだ名乗っておりませんでした。私は…弓良 と申します」
一瞬の淀みを逃す景津ではない。名を名乗れぬ理由があり、偽名を使っているのだろうと察する。狩人の格好をしているが、先程の塗り薬が入っていた二枚貝といい小刀といい、平民が持つには些か疑問が生じる上質な代物を持っていた。
(中流…いや、物腰から見るに上流の者か…)
瞬時に判断し、景津はすぐさま笑みを向ける。
「私こそ、名乗らず申し訳ございませぬ。私は景津と申します。弓良殿、迷惑ついでで誠に申し訳ないのですが…」
動かしてはならぬ、水に濡らしてはならぬと言われてしまうと、景津は里に帰る手立てがない。
男―弓良は合点がいったのか、お任せくださいと笑った。景津に背を向け、「どうぞ」と肩越しに振り返る。
「失礼いたします」
首に手を回してその背に乗れば、見た目よりも大きく筋肉質な背に、僅かな羨望が芽生え、胸中でため息を漏らした。
「動きますね」
ゆっくりと立ち上がるが、成人ひとりを背負っているのにその背は欠片も揺らぐ様子はない。それだけ弓良が逞しいのか、単に景津の体が細いからなのか。
緩やかに過ぎる景色をぼんやりと眺める。いつもは鳥獣が顔を出し、戯れがてら帰路につく為、鳴き声だけの見送りはほんの少しだけ寂しさを感じた。
「それにしても、お元気そうで良かった」
弓良の言葉に、景津は「はて?」と首を傾げる。それを知ってか知らでか、弓良はほんの少しの躊躇いを見せながら言葉を続けた。
「…あの時、目を閉ざすあなた様は生きている者の気配が無く、唇も蒼く、かなり慌てました。鼓動が聞こえた時の安堵と言ったら…」
言葉にするのも難しいと弓良がため息を吐き出すが、声音を上げて言葉を紡ぐ。
「今日の様子を窺って、安心しました」
助けた者と助けられた者。心底嬉しそうな弓良の声に、景津はきょとりと瞬くと、次の瞬間には「ふふっ」と吐息で笑った。
「斯様にご心配して頂けるとは…お優しいのですね」
景津の言葉に、弓良はそれを少しばかり否定する。
「どうなのでしょう。優しいを通り越して、お人好しが過ぎるのかも知れない」
そう笑った。
他愛もない会話の中、景津の胸の内は穏やかなものだった。里での『役目』や嫌がらせに懊悩する事も無く、発狂しそうなほどの孤独感にも苛まれる事も無く。
短いような長いような時間の中、息を切らす前に目的の里が遠目に見えた。
朝早いと言っても、既に日は昇り、穏やかな日差しを地上に注いでいる。勤勉な門衛達は仕事を始めているだろう。
「弓良殿、此処までで良いです」
「え、いや、しかし…」
戸惑う弓良が拒む前に、景津はその背から降りた。腫れていた足もとうに治っている。
少しばかり驚いた弓良が声を掛けようとした、その時。
―うおんっ!
犬、と言うにはあまりにも獰猛な獣の声が響いた。正面から駆けて来る大きな影。速度を緩めながら二人の前に佇んだのは、一頭の狼。その体高は弓良の腰ほどもある。
白毛蒼眼。何とも神々しい佇まいである。鋭い眼光が、弓良を貫いていた。
雄々しい気迫に弓良が動けずにいると、景津は素知らぬ顔で弓良の横を通り過ぎる。
「神樂、出迎え有難う」
景津が声を掛ければ、白狼はくぅんと甘えた声を出しながら伸ばされた手に顔を擦り付けた。
「迎えも来ましたので、ご安心ください。ご迷惑をお掛けいたしました。このような山奥まで運んでいただき、有難うございます」
「は、はあ…」
状況を把握し切れていない弓良を置き去りに、景津と白狼は里までの道のりを歩き始める。が、「そう言えば…」と景津が足を止めて弓良を振り返った。
「二度も助けて頂いた私が言うのもいかがかと思いますが、あまりこの里には近付かない方が良い。此処から先は羅刹の里。不用意に近付けば、肉塊と成り果てましょう…」
では。
景津は弓良に対して頭を下げ、再び歩き始める。
「羅刹の…里…?」
弓良の吐息のような呟きを、その耳に拾いながら。
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