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第1話
庭先で薄青が少しずつ主張を始めている。
涼しげに鳴くウグイスの声と、瑞々しい新緑が眩しくて目を細めた。
紫陽花はもうすぐ満開だ。
父親の急な転勤で、律が長野の片田舎へと越してきたのは、ほんの一週間ほど前。
東京の雑踏に慣れきった律にとっては何もかもが新鮮で、窓の外をただぼーっと眺めるのがここ数日の日課となっている。
「昔この街に住んでたってホントかなー。ゼンゼン覚えてないな~……」
間延びした緊張感のない声。
窓枠に肘をついたままのだらしない呟きは、めくってもめくっても探り当てられない記憶のアルバムに埋もれて飽いた結果だろう。
このよそよそしい町が縁のある場所だなんて、律にとってはまるで現実味のない話だ。
十年前、この町で半年間暮らした時、律は六歳だった。
人手不足だった町工場にヘルプで来ていた父、誉が、今や責任者として舞い戻った理由もまた人手不足らしい。
『この辺覚えてるか?』――引越し当日、車を運転する父に訪ねられたが、車窓を右から左に駆け抜ける景色が立ち止まることは、とうとう一度もなかった。
それどころか捕まえようとすればするほど、手の届かな場所に逃げられてしまう気さえした。
大した反応を示さない律に、誉は少しばかり困ったような表情で笑みを浮かべた。
『やっぱり母さんのせいかな……』
律の記憶がほとんど残っていないのは、母親と死別したショックが原因だと誉は思っているようだ。
心臓疾患で急逝した母親に異変の前兆はなかったらしい。文字通り突然の別れ。
この地に移り住んだのがその直後ともなれば、結びつけずにはいられないのだろう。
ピリっと雷が走るように、一瞬の痛みが頭のなかで弾ける。
「イター……今のなに?」
この一週間、度々同じような頭痛に襲われることがあった。しかも十年前のことを思い出そうとした時に限って。
誉の言う通り、母親を亡くしたショックから過去を手放したのだろうか。
――ズキン。わからない。
――ズキズキ。忘れた理由さえ忘れている。
――ズキズキズキ。
「あたた……っ! 頭っていうより、おデコ痛いかも……!」
窓枠にでろりともたれかかっていた腕を伸ばし、携帯電話を拾い上げた律は、カメラを起動させ自撮りモードに切り替えた。
平常から眠そうなぼーっとした顔――はさておき、伸ばしっぱなしの前髪をかき分け、画面に額を映すと、紅葉のような奇妙な形の痣が現れた。
「まあ、いつも通りか……」
目立たないように隠してはいるが、この痣とももう長い付き合いになる。
だけど――。痣ができたのは突然だった。
――あれはいつだったっけ? ――わからない。また頭の中でもやが濃くなる。
――ズキン。波が来たのと同時に微かな声が響いた。
『――けて……!』
「……なんか聞こえた?」
耳を澄ませると今度はハッキリ聞こえた。
『――誰か! 助けて……っ!』
「助けて?」
ギクリとする。本能で肉声ではないことを悟った。
まさかユーレイやお化けの類なのでは。
「え~と、聞かなかったことにしよ。……ウン」
立ち上げっ放しのカメラに変なものが写っては堪らないと、素早い手つきで形態電話の電源を落とす。
――今まで霊感なんかなかったと思うんだけど……なんで急に?
この町にやって来てからおかしなことばかりだ。
「……いやー、気のせい気のせい~」
何事もなかったかのようにその日はやり過ごしたが……。
「――気のせいじゃ……ナイ、かも?」
翌朝、また誰かの『助けて!』という大きな声が、鼓膜を突き破って脳内に木霊し、ビックリして飛び起きる。
『助けて……誰か……!』
無視を決め込もうと布団に潜って耳を塞いでみても、10分置きにやられては気になって仕方がない。
「もー……黙ってよ~!」
観念して眠い眼を擦りながら掛け布団を跳ねのけた。
立ち上がって居間へ向かうと、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。
座布団の上でマグカップ片手に新聞紙を読んでいた父親が目を丸めた。
「こんな時間に律が起きてくるなんて珍しいなあ」
「うー……うるさくて寝らんなかった」
「うるさい? なにかあったか?」
「? 父さんは聞こえないの?」
「なにがだ?」
誉のきょとんとした表情を見て『声』は自分にしか聞こえていないのだと知り、律は溜息をついた。
――どうしてボクなんだ。
そう思いながらも『声』の正体をつきとめることにした律は、縁側から庭を見渡した。
「どうした律。なにかいるのか?」
「ううん。あのさ、ボクって霊感とかあったっけ?」
振り向きざまに尋ねると、誉は顎に手をあてて考え込んだ。
年齢よりもジジくさい父の所作をじいっと見守る。
「……そういえば昔――」
「昔? 子どもの時?」
「……あ、ああ、いや、なんでもない」
「ええ~!?」
父はようやく口を開いたかと思うと途中で言葉を引っ込めた。
歯切れの悪さに唇が尖る。
期待した答えが得られないことを悟り、仕方なく縁側の外へ飛び出した。
置きっぱなしだった大きなつっかけを不格好に引きずりながら、『声』の主を探し始める。
断続的に聴こえるSOSを辿って庭の柵を越えた時、一際大きく声が轟いたかと思うと、花を落としたツツジの枝にぶら下がっているカエルが目に入った。
「わあ! こんなところにカエルが引っかかってる!」
バタバタ手足を揺らすも、相変わらずツツジに捕らわれたままのカエルは、なんだか妙な格好をしている。
マントのような黒布を羽織っているせいで、蝶々結びにした合わせ目の紐が枝に引っかかっているのだ。
「なにこれ。ヘンなカエルー」
しゃがみこんでしげしげ観察していると、カエルはそんな律をギョロリと睨めつけ、大声で叫んだ。
「ヘンなカエルとは失敬な! 某はこのお山を守る主様の立派な眷属ケロ~!!」
「……はっ!? カエルが喋った!?」
驚いた律が数歩後ずさる。
今喋ったのは本当に目の前のカエルなのだろうか。
――いや待てよ。
人じゃない何かの『声』を探してうろついていたのはどこの誰だ。
紛れもなく自分自身ではないか。
ぐるぐると忙しなく律の思考は回転する。
まさか、昨日からずっと助けを求めていたのは……。
「ぼーっとしてないで早く降ろすケロ~~~~っ!!」
――この人語を操るカエルだったのか!
律はジタバタと短い手足で暴れる緑の生き物を、ツツジの枝から解放してやった。
ようやくこれで安寧がもたらされるのかと思うと、もういっそこの謎の生物の正体が何だって構わなかった。
律は自然と笑顔になり、すっくと立ち上がった。
「もう引っかかって騒いだりするなよー。オバケのピョン吉ー」
「オバケのピョン吉……某のことか!? 妙な呼び方をするでないケロ! 主様の命で来てみればなんという屈辱――」
「主様の命? ってなに?」
「……」
「……」
度々話題に上る【主様】が気になり、首を傾げた。
目が合ったまま数秒沈黙したカエルは、誤魔化すかのように話を切り上げる。
「――に、人間には関係ないことケロ! 某はそろそろ失礼するケロ」
焦ったように向きを変え、ぴょんぴょこ跳び去っていく後ろ姿に、更なる疑問が口をついた。
「主様って、カエルのでっかいオバケ……?」
考えても仕方がない。もう二度と会うこともないのだから。
一件落着。律は晴れやかな気持ちでその場を後にした。
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