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第4話

 その後、律は人目を盗んで山に入るようになった。 何度も通ううちに、天狗の名前は『三郎坊』であること、昔は悪さばかりしていたが、守り神として修行を始めてからは、ずっと一人ぼっちで山に籠っていたことなどを教えてくれた。  三郎坊に会うときだけは、なにもかも忘れてただ心地良い温かさに浸ることができた。 ずっとずっと隣にいたい、いられるだろうと信じていた。 幻想のように、夢のように、簡単に失ってしまえるものなのだと知っていたはずなのに――。 *** 「東京に戻ることになったぞ。近いうちにまたお引越しだ」 「おひっこし……?」  突然告げられた言葉をすぐには理解できずしばらく沈黙していた律だったが、この町を離れなければならないことを悟った瞬間、心が凍りついた。 「いやだ! ボクはここにいる!」 「……律? どうした? 前に住んでた場所に戻るんだぞ」 「やだやだ! お父さん一人でおひっこしして!」 「わがままを言うな」 「や!! ボクはここでずっとさぶろーぼーといっしょにいる!」 「……誰だそれは」  突然癇癪を起こした息子に戸惑いながらも、聞き慣れない名前に誉は眉を顰めた。 「お山のテングさんだよ!」  サアッと顔色を失くした誉は、恐ろしい形相で律の腕を掴んだ。 「また一人で山に入ったのか! 危ないからダメだと言っただろ! 天狗なんているわけない! 子どもを騙して手なずけるなんて危ないやつだ!!」  物凄い剣幕で怒鳴りつけられ、律の心は怒りで震えた。三郎坊の優しさを踏みにじられたような気がしたのだ。 「お父さんなんか大っきらい!!」  喉が千切れそうなほど大声で言い捨て、律はその場を飛び出した。 『友愛の証』を握りしめ、一心不乱に山を目指す。  ようやく会えた天狗に事情を話せば、何もかも許すように律を優しく抱きしめ、宥めてくれた。 律は三郎坊の装束を握り締め、思いの丈をぶつけた。 「ボクずっとここにいる。お父さんなんかいらない!」 「……。なあ、律……今から律がもっと幸せになれる、天狗の秘術を施してやろう」  律が首を傾げると、やや強引に石の上に座らされ、葉団扇を額にあてがわれた。 「律がずっと笑っていられるように、邪魔するものは全部封じてしまおう」 「なにするの?」 「怖いことはしない。ほら、目を閉じろ」 「うん……」 「いいか? ……顕彰大神通力――」  難しい呪文を唱えられた瞬間、律の意識は急激に遠のいた。 だらりと垂れ下がった片側の掌から、大事に握り締めていた白い羽根が、するりとこぼれ落ちた。 律自身気づかぬまま、忘却の術に押しやられた半年間の記憶は、意識の奥底でひっそりと眠りについたのだった。 「律、幸せにな……」 ***    深い眠りから覚めるように、重い瞼を押し上げる。瑞々しい草の香りが鼻を掠めた。目の前で大きな白い翼が風に揺れている。 「……三郎坊?」  ゆっくり振り向いたのは、懐かしい顔だった。 「久しいな、律。体はもう大丈夫か?」  ――あの声だ。  幼い律が大好きだった、低く優しい声。  草の上に横たわっていた体をゆっくり起こすと、律は天狗のすぐ側へと歩み寄った。 「……ボク、なんで忘れてたの? あの時なにしたの?」  三郎坊は困ったように律の頭を撫でた。 「この町でのことを忘れて、父親と幸せに暮らせるよう術で記憶を封印した。額にあった葉団扇の形の痣は術の印じゃ。どうやらあれが暴走してお前を苦しめたようだ」 「そういえば、頭痛くなくなってる」 「ああ、術を解除した。あの痣ももう消えてしまった。せっかく忘れていたのにすまない……」  検討違いの謝罪に、すぐには言葉を返せなかった。  十年も経てば律にだってわかる。あの時三郎坊が自分とは一緒にいられなかったこと、なにも告げず記憶を封印してしまった理由も。 全ては律を大切に思っているからこその決断だったのだと。  ――だけど。 「羽根、返してよ」 「え……」 「友愛の証」 「……っ。ならん。わしと関わればまた前のようなことが起こるやもしれん」  頑なに拒もうとする天狗の不器用さに呆れ、律は真っ直ぐに瞳を覗き込んで言った。 「父さんや周りの人がどう思うかは関係ないよ。大切なものだって明日にはなくなってるかもしれない。失くした後に気づいてもなにもできないんだ。だから目の前にあるうちに、ボクはボクの意思で大切なものを大切にしたい」 「律……」 「三郎坊はもうボクのことどうでも良くなった?」 「ち、ちが――」 「どうでも良くないどころか気にしまくりケロ!」 「へ? あ、ピョン吉!?」  真面目な会話の途中で突然割って入った珍客に、二人は驚いた。そういえば倒れる直前に傍にいたは、この化けガエルだったっけ。  ――そうか。カエルの【主様】とやらは三郎坊だったのか。 「律が戻ってくるなり、某に律を見守るよう命じたのは主様ケロ。そもそも某を眷属にしてくださったのは、律がいなくなった後一人でいるのが寂しくなったからだと――んむぅ!!」 「これ、眷属の分際で要らぬことを申すな!!」  デリカシーのないカエルの口を抑えこみ、三郎坊が慌てふためいている。心なしか首筋が朱に染まっているように見え、律はプッと吹き出した。 どうやらお山の天狗は、十年前のままずっと変わらず律を大切に思っていてくれたようだ。 「この町に戻って来れてよかった。三郎坊にまた会えてよかった」 「律……。ああ、わしもじゃ」  改めて律に向き直った天狗は、翼から羽根を一枚抜き取り、十年前と同じように律の掌に握らせた。 「友愛の証じゃ」 「ありがとう。大事にする」  満面の笑顔を見せると、温かく優しい瞳があの頃のままそこにあった。  そして律はようやく悟る。 何度も助けを求めてきたあの声の正体は、封じられた記憶と、他ならぬ過去の自分が助けを求める声だったのだと――。

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