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第3話

 母親にはもう会えない。死とはそういうものなのだと父親に教えられた。 どんなに好きでも、もう絶対に顔を見ることも声を聞くことも叶わないのだ。  葬儀を終え、見知らぬ町に越してきてからというもの、誉は休日を返上して働き通しだった。単純に人手が足りないせいもあったが、理由はそれだけではなかった。  母親と死別した可哀想な子どもとして、大人たちには随分優しくされたが、空虚な父親と突然見知らぬ町に放り込まれたストレスから、律は時折誰の目も届かない遠い場所まで行ってしまいたくなることがあった。    その日、父親の同僚から貰った饅頭をおやつ代わりにポシェットへ突っこみ、律は公園へ行くふりをして、いつもは寄りつかない山の中へと入っていった。 ちょっとした冒険のつもりだった。  自分一人で自由に進んで行けることにワクワクし、気づけば律は木立の中を夢中で駆けていた。 土の香りやせせらぎの音に心が躍り、雑草をかきわけ、緑のトンネルをくぐり抜けた。  息を切らして高台まで到着すると、木々の間から小さくなった町を見渡せた。 父親の会社も、少し離れた自宅さえおもちゃになったような気がして、律は手を伸ばした。  掌が空を切る。届きそうで届かない。 突然――本当に驚くほど唐突に、律は実感した。 ――母親はもうどこにもいないのだと。 今までは手を伸ばせば、握り返してくれる母がいた。笑ってくれる父がいた。 でもそれは幻想のように、夢のように、簡単に失ってしまえるものだったのだ。 死とは、縁とは、そういうものなのだと、律は律なりにようやく理解した。 「ふっ、うぅ……おかあさっ、うっ、うえぇぇん……っ!」  寂しくて、恋しくて、堰を切ったように涙が溢れ出した。 初めて抱く密度の濃い哀惜の念に、自分の境界線がわからなくなるほど泣きじゃくった。 どんなにいい子にしていたって、失うときは失うのだ。  泣いて泣いて涙も声も干からび始めた頃、不意に律を慰めるかのような柔らかな風が吹いた。 くしゃくしゃになった顔を上げると、太い樹木の上に、鳥のような人のような影が佇んでいた。大きな白い翼が風に揺らめいている。 「ぐすっ、……てんし、さん……?」  絵本で見た天使の姿と重なり、思わず呟いていた。 翼の持ち主はビクリと肩を揺らし、しばらく押し黙ったまま様子を伺っていたが、ぐずぐずと鼻をすする律を見かね、木の枝から飛び降りた。 「お前、わしが見えておるのか」 「う、ぐすっ……うん」 「……そうか」  神妙な顔でゆっくりと近づいてきた翼の男は、ひょいと幼い体を抱き上げると、木陰になっている大きな石の上へ座らせた。 「てんしさん……」 「わしは天使ではない。この山に住む天狗じゃ」 「テングさん?」 「ああ」  天狗とは昔話に出てくるあの天狗なのだろうか。 無知な頭で一生懸命考えていると、天狗と名乗る男はおそるおそる(という表現がぴったりな手つきで)律の小さな頭を撫でた。 父親よりも大きな掌は驚くほど温かくて、枯れたはずの涙がまたせり上がってきた。 「……ふ、えぇん……っ!」 「……っ! い、痛かったか?」  泣き声に驚き、手を引っ込めようとする天狗に寂しさを覚える。そのまま撫でていて欲しかったのに。小さくしゃくり上げると、天狗は困ったように呟いた。 「すまぬ。人間に触れるのは久しぶり過ぎて、力加減がわからなんだ」  大きな天狗が子どものようにシュンとうなだれる様子に、律は目を瞬かせた。 「い、イタくないよ……!」  慌ててそう言うと、安心した穏やかな瞳を向けられ、温かさが胸に広がった。 逃げていった掌に自分から頭を押しつける。 天狗はふっと笑ってまた律の髪を撫で始めた。 「母親とはぐれたのか?」  ふるふると首を横に振り、亡くなってしまった母のこと、構ってくれなくなった父のことをたどたどしく説明した。 天狗は黙ったまま聴き終えると、ふわふわの白い翼で律の涙を拭った。 「……お前の父親も好きでお前を放っているわけではないぞ。よりかかれる場所がないだけだ」 「……?」 「心配せんでも父親はお前をちゃんと愛しておる。少しの辛抱だ。寂しくなったらいつでもここに来い」  天狗は翼から羽根を一枚抜き取り、『友愛の証』として小さな掌に握らせた。 眩しいほど真っ白な羽根は美しくて、宝物のように見えた。  律は思い出したようにポシェットの中から饅頭を探り当て、天狗に差し出した。 「これ、テングさんにあげる……!」 「饅頭か。これはお前の菓子だろう?」 「キレイなハネもらったから、これはテングさんにあげる! ゆーあいのあかし!」 「……そ、そうか」  天狗は一瞬息を飲み、照れくさそうに鼻をかいた。 受け取った饅頭をその場で半分に割ると、片方を律に手渡す。 「わしは半分で充分じゃ。お前も一緒に食え」 「いいの?」 「ああ」  半分ここそ仲良しになれた証のような気がして、律は満面の笑みで受け取ると、天狗と並んで饅頭を口にした。  その日の夕方、天狗に会ったことを父に自慢したが、一人でお山に入ってはいけない、と諭されて終わった。 天狗のことを信じてもらえないばかりか、自分への関心のなさまで見せつけられたようで、律はまた泣きたくなった。

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