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第26話
波打ち際に佇む少女がいた。
黒色の髪を靡かせ、明らかに人のものでは長すぎる耳をピンと立てて
裸足のまま砂浜の上を歩き、波に足跡が消されていくのを振り返って確認する。
空は快晴で、青く澄み渡る海はどこまでも続いていた。
空を見上げて、
不意に脳裏に映像がフラッシュバックし始める。
彼女には見知らぬ記憶があった。
白壁に囲まれた野原のような庭園。
そこを少し高い所から見下ろしている。
時々空を仰いで、太陽に目が眩む。
声が聞こえて、そちらを見ると、
誰かが自分を呼んでいる。
見覚えがない。そんな場所には行ったことがなかったが、それを思い出すたびに酷く懐かしくて
なんだか少し悲しいのだ。
「"愛してるよ"」
不意に思いついた言葉が口から零れた。
知らぬ間に頬に涙が伝っていた。
これがどういう意味なのかはわからないが、きっととても大切な誰かの想いが
この胸にあるのだろうと思っていた。
そしてそれは、
自分ではない誰かに宛てたものだとも。
「ベルチェ」
遠くから名前を呼ばれ、少女は涙を拭い振り返った。
砂浜の向こう側から手を振る者がいる。
少女は微笑み、手を振り返した。
「おじ様!」
愛しい人がいる。
色褪せることなく、目の前に立っている。
いつものことなのに、それが酷く特別な事のように感じて彼女は駆け出したくなった。
波打ち際から離れ、砂浜に足を取られながら
ヨタヨタとこちらに近付いてくる人物に向かって走った。
様々な記憶が脳裏をよぎっていく。
幸せな記憶、悲しい記憶、そしてあの見覚えのない記憶。
どれも全て大事で、自分にとってはかけがえのないものだった。
それが無くなっていくだとか、そんなことを思ったことは一度もない。
瞼の裏側にいつまでも張り付いて、褪せることなく。
私の背中を押す。
「走ったら転けるよ!」
そんなことを言われても足は止まらず
少女は結局走り抜き、その人物の懐に飛び込んだ。
うわっ、と声を漏らしてよろけながらもなんとか受け止めてくれた。
「びっくりした..どうしたのさ」
はぁはぁと息を弾ませながら
その胸、体格差がある為お腹あたりだが..に顔を埋め
ぎゅっと抱きしめる。
そして顔を上げた。
困ったような顔をして、彼は少女の頭を撫でた。
「私ね、今すごくおじ様に会いたかったの」
少女はそう言って背伸びをするように彼に顔を近付けた。
長い睫毛が揺れ、切れ長の瞳を細めながら彼は少女と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
彼女はおじ様と呼ぶが、そう呼ぶにはまだ若い顔立ちで少年のようでもあった。
三角形の黒い耳が空に向かってピンと立ち、長めの黒髪がサラサラと風に流れていた。
「それは秘密にしときなさい」
青年は苦笑をしながら自分の唇に指を当ててそう言った。
「さあもう帰りな、待ってる人がいるでしょ」
「また会える?」
少女は立ち上がる彼を不安げに見上げた。
「うん、君が望めばいつでも」
青年のその言葉に少女は満面の笑みを浮かべた。
いつでも会えるわけではない彼は知らない間に消えてしまいそうな、そんな気にさせる。
そういえば彼と会うときは、いつもあの白壁の庭園を思い浮かべた後だ。
「僕はいつでもここにいる、でしょ?」
自分の瞳を指差しながら彼の決め台詞を先回りした。
おかしくてくすくす笑うと、
青年は少女の黒髪と長い耳をぐちゃっとぶっきらぼうに撫でた。
「おじ様にも待ってる人がいる?」
少女がそう聞くと、
彼は何も答えなかった。
だがとても幸せそうな笑みを浮かべて、
思わず息をのむほど美しかった。
「さようなら」
見惚れていると、彼はそう呟いた。
「..さようなら、おじ様」
手が離れ、青年は海とは反対の方向へ歩いていく。
その背中を暫く黙って眺めていた。
黒くて細い尻尾がしなやかに揺れて、
リボンのように綺麗だと思った。
やがて姿が見えなくなると少女は、先程撫でられた髪の毛を自分で撫で付ける。
柔らかくて暖かい温度が、残っていた。
いつまでも、残っている気がした。
........fin
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