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15 outro
僕は大股で走った。放課後の、誰も歩いていない廊下に自分の足音が大袈裟に響き渡る。今までは走っていたやつを注意する側だった僕が、こんなことをするようになるなんて。人生は何が起こるか予想できない。
夕日で橙色に染まった渡り廊下の先に目的地がある。すぐ側にあるのに遠く感じる。なかなか着かない。もどかしい。必死に動かしている足が重い。息がつまる。瑞木だったら颯爽と駆け抜けるのだろうか。ロクに働かない脳みそで、彼が走る場面を思い浮かべた。
僕は彼と会えるのだろうか。彼が在籍しているクラスを知らないのに。クラスだけじゃない。好きな食べ物や音楽、誕生日だって知らない。いつも一緒にいたのに、知らないことばかりだ。
「ばかやろう」
僕の前からさっさと消えやがって。
君の残したものや、開けた穴が大きすぎる。
これからじっくりと時間をかけて、彼を知りたい。そのチャンスを再び掴むために僕はこうして、不恰好なフォームで走っているのだ。
渡り廊下の突き当たりにあるドアを僕は思い切り開けた。
♢♢♢
静かだった。この学校の多くの生徒は、図書室を利用しない。いつもガランとしている。そのおかげで夏休みの間、僕らは二人きりでいられたのだ。
胸の中にあった期待や希望といった感情が萎んでいくのを感じる。瑞木はいない。机に向かって本を読む彼の姿はどこにもない。いや、彼が本を読んでいたなんてことは最初の数日間だけだったな。
僕は立ち止まって、壁にもたれた。この部屋は、彼の痕跡が多すぎる。嫌でも思い出してしまう。記憶が止めどなく溢れる。
「痛い」
走ったせいで、血液の巡りが激しくなり、耳の傷口を刺激したのだろう。ジクジクと痛む耳たぶを冷えた指で抑えた。図書室内の思い出だけじゃない。君が残した痕はここにもあるんだ。
突然、部屋の奥から物音がした。軽いものが落ちるような音。カーテンが閉ざされ、薄暗くなっている方へ歩いて行った。
立ち並んだ本棚に近寄ると、数冊の本が落ちてしまっていた。僕はそれらを拾い上げようと屈む。すると視界に上靴が入り込んだ。目の前に誰かが立っている。
見上げると、学校指定の開襟シャツがあった。さらに視線を上げると、顔が見えた。会いたくてたまらなかった彼の顔が。
「もう逃がさない」
僕はそう言って、彼を壁に追いやった。僕の方が身長が低いのに、呆気なかった。彼の身体に力は込められていない。抵抗する気は無いようだった。
「ごめん。もう逃げない」
壁にへばりついたような体勢で瑞木は謝った。久しぶりに見た彼は少しだけ痩せているように見えた。暗い色のクマが目の下に深く刻まれている。お互い、眠れなかったようだ。
僕は震える声を絞り出した。
「あの時、何で僕の言葉を聞かずに帰ったんだ」
「怖かったんだ。ごめん」
「次は僕の言葉を聞いてくれるか」
瑞木は頷く。もう逃げないという決意が漲っていると彼の目を見て分かった。
僕は息を吸い込んだ。インクの香りがする。すっかり鼻に染み付いていた匂いを懐かしく感じた。久しぶりにここに来たからだろうか。
彼の手を握る。そして目を見て言った。
「瑞木と同じ気持ちだよ。僕も好きだ」
「本当に?」
「当たり前だろ。嫌いだったらここに来てないし、ピアスもつけてない」
僕は髪を耳にかけ、ピアスを見せた。そこに瑞木はそっと触れる。
「…似合ってる。綺麗だよ」
「アンタにもピッタリだ」
瑞木の耳を指差した。数多くの銀の中で、一つだけ金色に輝く輪を。
ふと、僕らの顔と顔がとても近いことに気付く。こんなに接近したことはない。そのことに彼も気付いたのだろう。真っ赤だった。二人の顔と耳は血の色が浮いている。見つめあって、少しだけ笑った。
「あの日からここに来るのが怖かったんだ。瑞木が居ないと思うと、足が止まった」
「本当にごめんね。俺もここに来ることを止めるのが怖かったよ。岐田さんとの繋がりが途絶えるって思ってた」
「ずっとここに来てたのか」
「うん。図書室に通うことが習慣化してたからかな」
彼の言葉の途中だというのに、僕は思わず彼に抱きついた。瑞木の身体が硬直していることが伝わってきたがやめるつもりはない。
すれ違いを重ねた僕らがやっとこうして会えたんだ。少しくらい我儘になってもバチは当たらないだろう。
目を閉じると、彼の心臓の音が聞こえた。結構激しい。僕は思わず笑ってしまう。
「緊張してんのか」「すごくね」「僕も」
きっと、僕の体内の血液は激しく行き交っているだろう。しかし、もう耳は痛まなかった。
「僕ね」
「うん」
「またギター、やろうと思う」
「ほんと?」
「ああ。だからさ」
僕は瑞木の耳元に口を寄せた。
「隣で聴いてて欲しい。弾いてるところ」
ピアスのついた耳が真っ赤になる。彼はゆっくりと首を縦に振った。
♢♢♢
再び君と離れてしまったとしても、僕はこの傷口をずっと大切にするだろう。
また一緒になれる日を信じられるから。
君が残してくれた痕だから。
僕はもう一度耳を触った。あることを確かめるように。君の痕はここにあるんだ、と。
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