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 ある冬の日。ひとりの男性がこの世を去った。交通事故だった。  歩道に突っ込んできた暴走車は、一組の父子に向かっていった。子供は軽傷だったが、父親は即死。  奇しくも、その日は子供の誕生日だった。  葬儀はしめやかに行われていた。近親者と友人を呼んでの小さな葬儀を執り行っていたのは、近所でも有数の株式会社広瀬葬祭。  会場でもある自宅からは、啜り泣く声や思い出を語る静かな声が聞こえてくる。  黒のロングコートを纏う男がひとり。男、立花優輝(たちばな ゆうき)は、向かいのアパートの階段に腰を降ろし、一晩消えぬ明かりが点る一軒家をぼんやりと眺めていた。彼もまた、広瀬葬祭の社員であったが、酷い顔だと言う理由で担当から外された。それが社長や先輩からの配慮であると分からぬほど、彼は子供ではない。  謝罪と感謝と、そこの見えぬ悲しみが立花から立ち上がる気力すら奪い去る。  何度も洟を啜るが、止まる気配はない。気を抜けば涙が零れ落ちる。 「南雲さん…っ」  呟いた名は、亡くなった男性の名であり、立花の高校の先輩だったのである。そして、ほんの短い時間だったが、深く愛した恋人でもあった。  不意に砂利を踏み締める音と共に、俯いた視界に黒の革靴が見えた。  アパートの住人だと悟り、一八〇センチメートル近くまで育った身体を懸命に縮こまらせて、小さな通り道を作った。しかし、革靴は動かない。 「立花さん?」  不信に思っていると、目の前の動こうとしない男から声を掛けられた。聞き覚えのある、低い声だ。  しかし、いつもと違って静かな声に人違いかと視線を上げれば、そこに立っていたのはやはり脳裏に浮かんだ男だった。  嵯峨山文博(さがやま ふみひろ)。立花が勤める会社付近にある建設関連会社の従業員だ。暖かそうなファーつきの深い茶色のダウンジャケットの下、土方の仕事で鍛えられた身体を無理に押し込めているのは黒のスーツ。絞め慣れてないであろうネクタイも黒で、それが喪服であるとひと目で判断できた。 「具合でもわるいんすか?」  体育会系特有のなりきれない敬語で話し掛けてくる。 「な、で…喪服…」  問いには答えず、嵯峨山の黒いネクタイを凝視したまま呟いた。  嵯峨山は僅かに言い淀んだが、立花の格好、常にはないぐちゃぐちゃの顔、向かいの民間で状況を察し、眉尻を下げて不格好な笑みを浮かべると口を開いた。 「あー…あの向かいの家、兄貴の家なんっすよ…んで、兄貴の葬式から抜けて来ました…」  立花は一瞬だけ頭の中が真っ白になった。彼は一人っ子だったはずだと、古い記憶を掘り起こす。 「南雲さんの…おとう…?」  混乱はすぐには収まらない。立花はぼんやりと嵯峨山を見上げていた。 「…もしよかったら、うち、上がります?」  散らかってて、狭い部屋が更に狭いけど。  そう苦笑した嵯峨山の目元が、僅かに赤いのに気が付いたが、立花はなにも言えず、小さく頷くだけで精一杯だった。  二〇三号室のプレートには手書きで嵯峨山と書かれた紙が入れ込まれている。 「どうぞ」  開かれた玄関。近場のスイッチで玄関口の電気を付け、嵯峨山は手のひらを上にして中に入るように立花を促した。  家主より先に入るのは気が引けたが、躊躇いながらも足を踏み入れた。普段見掛ける作業用ブーツとプライベート用のブーツとハイカットのスニーカー、サンダルが数足あるだけの玄関に自分の革靴が違和感をもってそこに並んだ。 「奥行ってください」  優しく背中を押されるまま、玄関口の明かりだけを頼りに奥に進んだ。  タバコの臭いと香水のエゴイストの匂い。  パチン。壁際のスイッチが入れられ、部屋の明かりが室内を照らし出した。  思ったより広い室内だった。男の一人暮らしにしてはそれなりに片付けられ、洗濯物が溜まっている感じも見当たらない。低い木枠のベッド、小さなソファーとタバコがのったテーブル。テレビラックには香水がいくつか並んでいた。 「適当に座ってください。コーヒーでいいっすか?」  電気ストーブが入れられ、嵯峨山は立花に背を向けてキッチンに立った。しんと静まり返る寒い部屋に、ヤカンでお湯を沸かす音だけが小さく響く。 「兄貴…あー…あの人が高校卒業の時、うちの親父とあの人の母親が再婚したんっすよ」  カチャカチャと音を立てながら、嵯峨山がぽつりと独り言のように吐き出した。聞き逃しそうな声量だったが、テレビの音も何の音もない中ではやけに大きく聞こえた。 「ああ…だから、か…」 「特に報告する事でもなかったんで、俺も兄貴もあんま周りに言わなかったんです。どぞ、熱いんで気を付けてください」 「あ、ああ…ありがと…」  マグカップに半分ほど入れられたコーヒー。その傍にそっと添えられた、小さなお皿にのせられた角砂糖とポーションタイプのクリープがひとつずつと小さなスプーン。  高校までブラックは飲めなかった。その時付き合っていた男、今日天へと昇る準備をしている男に「ブラックくらい飲めるようになれよ」と笑われ、「大人になったら飲みますよ!」と子供じみた反論をした覚えがある。二十歳を過ぎてタバコを嗜むようになれば、自然とブラックしか口にしなくなっていた。  十年以上も前のことを、鮮明に思い出すのは彼岸へ渡る彼への餞なのだろうか。  ひと口。熱を喉に通せば視界が滲み、唇が震えて、手から力が抜ける。カップを持ち続けることが出来ずにそっとテーブルに戻した。 「っ、ふ…ぅ…」  噛み殺した嗚咽が漏れ、覆い隠した手のひらに涙が零れ落ちる。正面からもコーヒーを啜る音の合間に、時折洟をすする音が耳に届いた。  しばらくの間、特に話をするわけでもなく、互いに涙を落ち着かせて行く。 「…はは、お互いぐちゃぐちゃっすね…」  嵯峨山が差し出したティッシュを、立花は礼と共に受け取った。俯き加減で鼻を押さえながら、立花の視線は嵯峨山を捉える。  立花同様に目と鼻が赤く染まっている。 「コーヒー、淹れ直しますね」  眉尻を下げた嵯峨山の笑みは見慣れぬ表情で、普段の明るい彼しか見たことの無い立花は僅かばかり戸惑った。  あまり中身の減ることがなかったコーヒーは排水溝へと呑まれて行く。  すぐに二杯目が淹れ直され、湯気を立てて目の前に置かれた。今度は昔の思い出に揺らがない。 「ありがとう…」 「どういたしまして」  再び降りた沈黙の中、立花は徐々に居心地の悪さを感じ始めていた。話題と言う話題も、親しい中でもない互いの間柄では、共通の話と言えば仕事上で関わったことがある事柄か、先程まで泣いていた理由の男のことしかない。 「立花さんは…」 「っ、え…?」 「立花さんは、兄貴とどういった…?」  確かに関係性を知らない者から見れば、何故、あれほどまでに大泣きするのかが分からないだろう。  立花は無理矢理に笑みを作り上げ、自分の心にそっと蓋をした。 「高校の時、一番仲が良かった人だよ。一年しか同じ時間を共有できなかったけど…一番、隣に立ってた人だ…」  昔を懐かしむ様子で目を眇める立花は、ふっと微笑みを浮かべていた。涙が一筋流れたその笑みは、今にも脆く儚く消えてしまいそうで、嵯峨山はハッとして立花のスーツに包まれた腕をつかんだ。  立花は驚愕に瞠目し、反射的に顔を上げて嵯峨山の顔を見た。焦っているような、何かに怯えているような、不安に塗り潰された表情で立花を見ていた。 「嵯峨山、くん…痛い…」 「っ、あ…すんませんっ」  ハッと息を呑み、嵯峨山は慌ててその手を放した。違う気まずさに苛まれ、立花は小さく息を付く。

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