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ヴィルフリートの想い③

 エルの顔を見たい。  もう何日会っていないんだろう。  もう何日触れ合っていないんだろう。 「想いに耽るのもいいですが、手を動かしてください。ったく、誰のためにしてると思ってるんですか?」  補佐官であるジークは嫌味を言いながらも、俺に回ってくる訴状を処理する手を休めない。  こんなに友人に感謝する日が来るとは思わなかった。      一番の問題は婚約の解消だった。    伴侶にしたい人ができたと父に訴えても、それを結婚を回避するための戯言だと受け取られる始末。今までの愚行を思えば仕方ないことなのだが。  そんな父を説得しに、毎朝部屋まで直訴しに行くという日が続いていた。ほんの短い逢瀬の時間を割いて。  俺の執拗な訪問に、往生際が悪い、と唸るだけだった父もようやく耳を傾けるようになってきた。  相手が平民であることを言えば眉をひそめていたが、余りのしつこさに、先に折れたのは父。俺の母の事もあり、父も自身の事を棚に上げることはできなかったのだろう。  アンネリーゼの父であるベルギウス公から婚約解消の条件として提示されたのは、アンネリーゼの我儘に一週間付き合う、というものだった。  今まで蔑ろにしてきた謝罪の意味も込め、これで解消できるならと俺は二つ返事で頷いた。  一週間は恋人のように接して欲しい。  自分が満足できるデートに連れて行って欲しい。    簡単なことだった。  エルを連れて行くならと、そう思えばすんなりと予定を立てられた。    アンネリーゼと街や郊外を訪れていても、心に浮かぶのはエルの笑顔。    アンネリーゼの嬉しそうな表情を見ながらも、エルならばきっと…、とエルが見せるだろう反応を思い浮かべてはその想像の姿に笑みがこぼれた。  その笑みが自分に向けられているのだと勘違いし、キスまで強請って来たアンネリーゼにはさすがに苦笑せざるを得なかった。まぁ、これは俺も悪いのだろうが。  ベルギウス公もアンネリーゼを気に入ったのなら、考え直してやってくれと願い出てくるほどだった。    俺は変わったのだろうか?  他者から見てもわかるほどに。   「エルちゃん、指輪大切そうにしてたよ。声かけるまで全然気づかずに指輪眺めてて。指摘したら真っ赤になってた。ほーんといい子だよね。ヴィルには勿体ない」 「まあ、これだけ変われたのだからいいだろう」  エルの指輪を眺める姿とディーに言われて赤くなる姿は安易に頭の中に浮かび上がる。本当に単純な奴。   「うわぁ、ヴィルの周りがピンク色。流石にこの変わりようはちょっと気持ち悪いけど」 「……ディー、あんまり調子に乗らない方が良いよ?」  はーい、と間延びした返事をするディーは全く悪びれた様子もない。少し睨みつけると、ディーはニタッと笑った。 「エルちゃんからいいもの貰って来たんだー。ヴィルに渡してって言われたけど、どうしようかなー」 「おい、ディー、それはやめとけ」 「うん、俺もそう思うよ、ディー。今月の給金楽しみにするといい」 「えええ!? 横暴! 無慈悲!」  肩を落としたディーから差し出されたエルの店の紙袋の中を見ると、俺がエルに作って欲しいと言っていた疲労回復薬と小さなメモが入っていた。 『ご自愛ください』  急いで書いたのだろう、走り書きに近かったが、それでも十分なほどエルの気持ちが伝わって来た。  あともう少しで迎えに行ける。  俺の正体を知ればエルは腰を抜かすかもしれない。  だからこそたっぷりと甘やかして俺から離れられないようにしよう。  そう思うと自然と頬が緩んだ。      しかし――、  凶報が届いたのはそれからわずか二日後の事だった。  ジェラルドから聞かされたエルの失踪。  混血であること、妊娠していること。  どれもが俺の心を抉った。  また?  また俺は…。 『信じられない?』  信じたくない。エルがそんなこと…。 「エルが、他の男とできてたってこと?」  自嘲しながらもそう発するのが限界だった。 『違うわ。あの子の事』  どういうことだ? 『ヴィルフリート、貴方はあの子の何を見てたの?』    何を見てた?  エルは…。  エルは。 『伴侶にしたいという想いはそんなに軽いものなの?』 「違う」 『なら、どうして信じないの? あの子は貴方の事を信じ続けていたのに』  俺は衝撃を受けた。    そう。  騙していたのは俺の方。    それをエルは何の疑いもなく信じ、俺を真っ直ぐに見つめていた。 「……俺の、なのか?」 『さあ? あなたは信じられる?』    あの屈託のない笑顔に裏はなかった。  あの日流したあの涙に嘘はなかった。  俺を好きだというその言葉にも。    なんだ、簡単なことじゃないか。      エルが俺を信じたように、     「信じる」  今度は俺がエルを信じる番なのだから。    エルが待っていることを信じて俺は前だけを向いた。    

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