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いつものこと 前編
「エル、今日はマルセルの事、頼んだよ」
「うん。多分、大丈夫だと思う…」
「無理しなくていいからね?」
「…ありがとう。ヴィルばかりに頼ってないで、僕もしっかりしなきゃいけないのに…」
少し俯くとヴィルは、気にしないの、と言って僕を抱き寄せて、おでこにキスをしてくれる。僕はホッと息を吐いて、ヴィルの胸に顔を埋めた。
ヴィルの腕の中って本当に落ち着くんだ。初めはドキドキしっぱなしだったけど、今はそこが僕の安心できる居場所に変わった。
「いつでも呼んでくれたらいいからね?」
優しく微笑みかけてくれるヴィル。僕はそれに笑みで返してから少し背伸びして、ヴィルにありがとうの意味を込めて軽くキスした。
離れようとした僕の頭と腰を引き寄せて、ヴィルは深く口づけてくる。
「…ん、…」
朝から濃厚なのされると、本当に困る。
でも、ヴィルに敵うわけもなく、流されちゃう僕。ヴィルを拒むなんて僕にはできないし、こうしていられることが嬉しいんだから仕方ないよね…。
解放されて、もう一度いってらっしゃいのキスをして、ヴィルを見送った。
うう、離れるのが辛い。ぬくもりが恋しい。
僕はその想いを必死に胸に押し込んで、子供部屋に向かった。
さて、次は母親としての仕事をしに行くよ。
まずは朝の挨拶。
扉を開けると自然と集まってきて横一列に並ぶ子供たち。今日も猛烈にカワイイ!
小さな階段に愛しさが込み上げて、自然と顔が綻んでしまう。
それから挨拶して、ぎゅっとその愛らしい体を抱きしめる。小さな手がきゅって僕にしがみ付いてくるのが堪らなく可愛い。
右端に長男のマルセル5歳。
「おはよう、マルセル」
「おはようございます、母上」
その横の次男のアルマント3歳。
「おはよう、アルマント」
「おはよー、ははうえ」
そのまた横の3歳になったばっかりの長女のハンナ。
「おはよう、ハンナ」
「おぁよー、かあたま」
そして、ハンナにしがみ付いてる三男のクラウス1歳。
「おはよう、クラウス」
「あーぅー、かぁた」
マルセルの後にすでに三人も子供ができて、もう四児の親になってしまった。お腹にも一人いるんだよね…。この調子でいくと大変なことになりそう…。
その辺はヴィルに任せてるから、僕は気にしてないんだけど、それでもこのペースだと不安になってくるんだよね。
先生が来るのはお昼からだから、それまでは子供たちとの時間。
じゃれ合って、お絵かきして、お散歩して、おままごと。
クラウスは最近抱っこ抱っこばっかりだし、アルマントも便乗して抱っこを要求してくるから、僕の腕はムキムキだよ。
ハンナはお姉さんなところを見せたいのか、あんまり抱っこって言ってこないから、僕から抱っこに誘う感じなんだ。マルセルも抱っこさせて?、って僕から言わないと抱っこさせてくれない。もうお兄ちゃんだよね…。
そんなこんなで、お昼ご飯を食べる時にはヘトヘト。でも、こんな時間を貰えるのも今のうちだから、いっぱい子供たちと楽しんでおかないとね。
「マルセル、今から先生が来られるから、ちゃんと挨拶して、しっかりお話しを聞くようにね」
「はい。母上」
マルセルは頭が良くて、とってもいい子。いい子過ぎて大丈夫かなって思っちゃうくらい。もっとわがままでもやんちゃでもいいのにな…。
僕の五歳の時ってただ森で走り回ってただけだと思うんだけど、やっぱり王族って大変だよね。こんな時から勉強もマナーも習い始めるんだから。
今でさえ、マルセルより僕の方が礼儀作法を知らない気がする。16年間で培ったものってなかなか直せなくて、緊張するから余計におかしいことになっちゃうんだよね。ダメな見本だけはならないように頑張ってはいるんだけど。
「ベンヤミン・アドラーと申します。本日よりマルセル殿下の家庭教師を務めさせていただきます。よろしくお願い申し上げます」
案内されてきた家庭教師は、モノクルを着けた、いかにも頭の切れそうな男性だった。
アドラー子爵は確かブローベン侯の次男だったはず。ブローベン侯は薬師連盟の重鎮で僕も薬草栽培の件でお世話になってたりするんだ。侯爵はいいおじさんって感じで話し易いけど、ご子息はとっても真面目そう…。
こ、怖い…。このピリピリした雰囲気。
挨拶はもう済んだから、後は終わるまで発言しないようにしよう。確実に僕の頭の悪さが露呈してしまうことになるからね…。
僕は、勉強に励むマルセルと先生の背中を眺めては、二人が振り向くたびに笑顔だけ向けておいた。その度に先生が僕の事を睨みつけるような強い眼差しで見てきたんだけど、やっぱり僕いない方が良かったかな。
今日から本格的に始めるわけじゃなかったみたいで、マルセルと面談をしながらこれからの進め方を決めて、早々にティータイム。
「マルセル殿下はとても飲み込みが早く、私が楽をさせてもらうことになりそうです」
緊張が解けてきたのか、アドラー子爵はそういって笑顔を見せた。
先生、ちゃんと笑えるんだ。怖い人かと思ってたけど、そうでもないのかな。
マルセルとも特に合わないって感じじゃないし、よかった。
マルセルの学園入学までの三年間の計画を一通り説明してもらって、ヴィルから言われた必須項目が盛り込まれているかを確認した。
時間が掛かっても焦らずにすれば、僕だってできるよ。アドラー子爵からすごい視線を感じて、急かされてるみたいだったけど、落ち着いて責務を果たしたよ。ちょっと不安だけど…。
そして、なぜか薬草の温室栽培を見たいって言われて、マルセルを部屋に置いて僕はアドラー子爵を温室へと案内した。
「珍しい薬草を育てておられるのですね」
「はい。全てギルドAランク以上の依頼で採取するものになります。これらの薬草の採取は割の合わない仕事だと敬遠されがちで…。ここで収穫できるようになれば、危険を冒して採取してもらう必要もなくなりますから。それと定期供給して、価格を安定化させる計画も立てているんです」
「すばらしいですね。父が熱心に何をしているのかと思えば、こんなことになっていたとは」
「薬学にご興味があるのですか?」
「父は薬師免許を持っていて当たり前という考えで…、免許だけは持っているのです。まぁ実際はこうして教える立場に従事させていただいていますが」
こんなところで同士発見!
なんだか嬉しい。
それからアドラー子爵とは話が弾んで、僕の知らないレシピについて教えてもらえたり、学園で薬学科の生徒たちがどんな事を学ぶのかを聞けて、有意義に過ごせた。学園に憧れていた僕にはとっても魅力的な話だったよ。
「マルセル、先生どうだった?」
「怖くないし、お話も分かり易かったよ」
「良かった。最初は怖い人かと思ってたけど、お話ししてみると、そうじゃなかったし、マルセルの事きちんとお願いできそうだね」
「うん。母上はあの後どこに行ってたの?」
「えっと…あの後? 先生を温室に案内してたんだよ。薬学を専攻されてたんだって」
「ふーん。二人で?」
「うん。あ、もちろん護衛も連れてたよ」
「……それならいいけど」
マルセルは本当に僕よりしっかりしてる。
クラウスをあやして散歩してたら迷っちゃって…。王家専用の庭だから安全は安全なんだけど、ウロウロしてたところを大慌てのディー様に保護されて、ヴィルにすごく怒られたのはまだ記憶に新しい。それを覚えてるのかな、まだ五歳なのに…。
「エル、ただいま」
え、もうそんな時間!?
僕は振り返って、ヴィルに駆け寄って、おかえり、って言ってからおかえりのキス。ヴィルにきゅって抱きしめられて、僕は腕の中でほっと息を吐いた。どれだけ毎日抱きしめられても、幸せを感じるこの瞬間。
「この様子だと、大丈夫そうだね」
「うん。ブローベン侯のご子息だったんだね、マルセルの先生って」
「そうだよ。侯爵からの要望でね。全く知らない人より、少し関りのある人が良いかと思って」
「そうだったんだ。ありがとう、ヴィル。先生も薬草の栽培に興味があるみたいで、温室も案内したんだよ。薬学科の生徒が使ってるテキストまでもらえることになって、すごく楽しみなんだ」
「………ふーん」
あれ、なんだかヴィルが変…?
なんだろう、この素っ気ない感じ。
「どうしたの? 僕何か変なこと言った?」
「別に、何でもないよ。それより、エルじゃない匂いがするけど、アドラーに触られたりした?」
「…へ? 触られ…」
うーん。どうだったっけ。
話に夢中であんまり覚えてないけど、確かに距離は近かったかな?
「ごめんなさい。良く覚えてないかも…」
「そっか、ならいいよ。さ、夕食にしよう」
「…うん」
本当にいいのかな。大丈夫かな。
ヴィルの笑顔はいつも通り輝いて見えたけど、僕はどこか不安で仕方なかった。
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