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第三章◆魔ノ香~Ⅺ
この胸の不快感は ... 何だろう。
フェレンスは考える。
カーツェルの背を裂 いたのは、圧耐久性 の高い強化硝子 だ。
砕 けたところで粉のように微塵 となるはずのものが、変質したらしい。
凍 てつく炎を宿す彼の身体 は、魔白鋼 や魔青鋼 のように
特殊金属でもない限り、重度の切傷を負うことは無いが。
膝 にかけたローブで彼の身体 を包 みながら、フェレンスは自 らに疑問を呈 した。
痛みに似 ているが、明確には言えない。
氷で満たされた泉 に浸 けられ浮き上がる心臓を、
細い針で縫 い絞 られるような、この感覚は一体 ... ...
蒼火が燈 る傷口から押し出され、床 に落ちるたび。
キン ... キン ... と、高い音を発し。
粉のように砕 け積 もる硝子片 。
体内に残らぬよう、法により処置 していたところ。
何喰 わぬ顔をして見せるカーツェル。
フェレンスは、釈然 としない表情だった。
得体 の知れぬ心情に揺 さぶられ、戸惑 う。
初めての経験ではないが。
その都度 、少なからず困惑 した。
昔から、フェレンスに対する人々の陰口 に一々 腹を立て。
酷 い時には、複数人を巻き込むような騒動を引き起こしたカーツェルだが。
帝国軍・大佐を務 めた男の末息子と思えばこそ。
一、軍人たる者、嘆 くべからず。力に変え、挑 むべし。
一、敵と見做 すは。強者らしく踏 み越 え沈黙 さしめよ。
責 め追い立てるは力無き者の愚行 と知らしめるべし。
一、奪 いせしめたる者、生み成 すを知らず。
戦意を示 し盾 とせよ。
厭 わず、護 り集 い、決 すべし。
父の信条 に倣 う姿勢。
正義感や道徳心から成 る行い。
どれも自然と納得できたのだ。
ところが。フェレンスのもとを訪 れては、人が変わったように悔 し涙を流す。
そんな彼の口から溢 れるのは、それら如何 なる名分でもない。
『あいつらが ... 俺とお前が一緒にいたら悪いみたいに言うから ... ... !』
傍 に居るだけで傷付くなら、 近寄ったりなどしなければ良いのに。
幾度 となく言い争った。
なのに彼は聞く耳を持たず。
未 だ、こうして傍 を離れない。
不可解な痛みは、増していくばかりなのだ。
泣かなくなった分、無理をすることを覚えた彼の実直 さを、思い知らされる毎 に。
罪悪感を感じるほど良心的ではない。
自 らの本質はよく理解しているつもり。
成 すべきを成すため、必要な行いであれば善悪を問わず。
自身がいずれに属そうとも、気にすらならないのに。
化物 ... ...
彼がそう誹謗 されるに関しては、別 ... と、認識している。
それが、どうも腑 に落ちない。
自分のことなら良いが、彼が傷付くのは嫌。それはそう。
だが、後悔したり気に病 むのとは異 なり。
気分を害 されるというわけでもない。
フェレンスにとって、その謎めいた感覚は ... 痛みは ...
出処 の知れぬ曰 くの煩 いとなっていた。
あの人が ... 彼ノ尊 が、世界の修正を口にした日の痛烈 な〈悲しみ〉とも掛け離れて、理解し難 い。
けれども、それで良い。
フェレンスは思う。
根拠 が知れようと知れまいと、彼への愛着が形を変えることはないのだから ... ...
カーツェルを包 むローブに織 り込まれた治癒 効果は、
直接的に法を施 すよりも回復速度が穏 やかで持続的。
心身に負荷 をかけることが少なく、傷跡も残らない。
しかし、急事 でもない限 りは、なるべく自然なかたちでの治療 が望ましいので。
霊草 を用 い薬を精製 するため、席 を立つフェレンス。
蓄積 した疲労が見て取れるカーツェルの懐 に肩を入れ、支 えてやりながらの移動だった。
自 らの心境について深く考察することの無い。
異端ノ魔導師の脆弱性 が如実 にあらわれた光景と解釈 する。
これは、部屋の片隅 で両者を黙視していたクロイツの私感 。
冷静に見えて実のところ、そうではない。
奴は ... 感情的になっている己 の境遇 さえ理解する必要の無いものと切り捨て。
あるべき姿の維持 に徹 しているだけなのだ。
連発した炸裂音 に驚 いて グスグス と泣きはじめる少年を宥 めつつ。
由々 し惟 る。
理性の塊 、そのもの。 そんな貴様に、
心弱い我々 人類が得 るべき〈誠 ノ力〉など、見いだせるものなのか?
私には到底 、そうは思えぬ ... ...
クロイツがフェレンスに向ける不信の念は、ー甚 だ共感しかねる高み意識への恐れに近かった。
――― 古代暦学において。
〈星詠み〉と呼ばれた天文学者の一派が、
予言や占星の虚実 関係を解き明かさんとする間 に〈誠 〉 と呼び示 した真理。
霧ノ病 による魔物の脅威に怯 る人々は時として、
それに基 づく力で人類を導 かんとす賢者 の面影 を探した。
延 いては、帝国政府がフェレンスの素性 を覆 してまで生かしておく理由に他ならぬ。
クロイツが案 じているのは、そういった歴書に固着 する印象により、
まるで英雄か何かのようにフェレンスを担 ぎ上げようとする〈宗教的勢力〉と、
流れを利用し独裁を目論 む〈政府の一部勢力〉と、
それら目上の権威独占を良しとしない〈軍勢力〉との三つ巴 が、
何かにつけ無関係な民を巻き込む実情に伴 った ... 二次被害の拡大である。
伝説の血と思わしきを宿 す少年が、忽然 と姿を現 した今。
対立と混乱が激化するのは目に見えている。
泣く子を抱いたまま室外へ出て、クロイツは思い詰 めた。
口を固 く結 んで、目もくれない。
そんな様子を、上階の踊り場から吹抜け越 しに見ていたのは、ノシュウェル。
ただならぬ物音を耳にして駆 け付けたところだが。
少年を連れた上役 の表情から察 し、部下と共に留 まった。
彼は、クロイツが別室へと移動し終えるまでを見届け、行動する。
翌朝には宿 を発つため。
まずはフェレンスの許可を得 て、機材の送り返しを部下達に命じ。
支度済みの部屋まで主従 を案内した。
ローブを着せられたカーツェルに寄り添 って離れないフェレンスを見れば、事態の把握 は容易 。
折 りを見て食事を済ませるよう告 げたうえ、速 やかに退室後。
現場へ戻った際 。床 の血痕 を拭 う部下の手元を窺 えば。
重症には至 らなかったものと見えるが。
「よくもこう次々と、厄 に見舞 われるもんだ ... 」
訝 しげな顔をして呟 くノシュウェルは、ふとして窓の外へと視線を持っていった。
後始末 に忙 しく行き合う部下達の傍 ら。
事故の衝撃で罅 の入った窓の硝子 面を隈無 くテープで止め、応急処置とする作業の終わり頃。
左右の梁 りを、きっちり抑 えて閉める部下と入れ替わるように。
窓辺に立つと、月の光を梳 き降ろす樹海を眺 め、思いを馳 せる。
明日 の昼過ぎには、ウォルテアの国境手前にある空港に着 くとして。
手配しておいた飛空艇 に乗り込めば、日暮れ前には帝都の土を踏 めるだろうか。
山岳 を経 て、緩 やかに下る運河の流れ沿 いを立ち囲 う樹々 は、
撓 る枝 を横たえ、宿場の軒先 を結 ぶ。
叉木 の上に家が立つ程 の巨木で占 められた土地故 。
地上を切り開くよりも樹の上に住んだ方が手っ取り早く。
土地の変質も避 けられるとして開発が進んだよう。
時として通りかかる船は、その下を潜 るかたちで静 やかに航行した。
また、そういった事情から。
この先、馬車は使えないので。
日が昇り次第、船へと乗り継 ぐ予定だ。
荷移し作業は既 に済ませてある。
つまり。そういった移動等 の手はずは全て、ノシュウェルの請 け負い。
クロイツは、今後の見通しをつける事にのみ集中した。
少女を追跡するノシュウェルの部下の動向。
少年という恰好の獲物を取り逃がしたであろう、奴等 の出方 。
自由の効 かなくなったフェレンスを引き込みに乗り出すであろう勢力が、
はてさて、どのような理屈 をこじつけてくるものか。
関連性も含 め、様々に想定した。
泣き疲れてきた少年の眠気眼 が、うつらうつらと船を漕 いでも、お構 いなし。
頭を撫 でてやるのも片手間 になっていたところ。
「ねぇ、クロちゃん ... ... あのね ... ?」
唐突 に話し掛けてきた少年に対し、返事くらいはしてやろうかと ... ...
思 ... い 、ながら、も。
すっかりと思考が停止する。
目を向けると、視線がカチ合った。
「お、ぉぉ、お、お前 ... ... 今 ... ... 今、何と ... ... ?」
驚 きのあまりか。少年の片言 が口移 し。
クロイツは不規則 に息を継 いで言った。
すると、脇 に凭 れ見上げてくる ... お眠 ニャンニャンが、そう、何と。
「 ん、と。あのね? ... えっと。 クロちゃん、僕ね?
シャマのところに、行きたいの。 連れて行ってくれる?」
何とも、まぁ、卒然 に ... まともな言葉を発したのである。
シパ シパ シパ シパ シパ ッ ... ...
クロイツの高速瞬 きが冴 える。
柄 にもなく小首を傾 げて硬直すること暫 し。
フ ェ ッ ... と大きく息を吸ったクロイツは即座に呼び付けた。
「 フ ェ レ ―――――――――― ン ス !!」
「ぶ ふぉ っ ... ... !!」
その時。真っ先に吹き出したのはカーツェルである。
幸 い傷は浅 く、ローブの効力もあって特別な手当は必要なかったので。
冷めないうちにと勧 められたスープを口にしはじめていたところだった。
そんな彼の背中の血を拭 き取ってやりながら、フェレンスは声のした方を振り向く。
〈 バタン !! バタバタ ダ タ ゙ ダ ダ ダ ... !!〉
夜、夜中。
少年を担 ぎ上げて部屋の扉を開け放 ち、
階段を駆 け上がるクロイツの素早さたるや... 疾風 の如 し。
後始末も済まぬうち。
廊下を疾走し行き過ぎる上官を上手いこと跳 ね避 けた兵士の一人は、
青褪 めた顔で振り向き、背を目で追いながら呟 いた。
「お、お願いだから ... もう、これ以上、仕事、増やさないで ... 」
ガクブル ... ...
震 える彼等 は、それぞれに手を止め愕然 と伏 す。
俺たちだって、たまにはベッドで寝たい ... ...
声に出して言う者はいなかったが。
つまりは、そういうこと。
遠征 中、宿で寝泊まりすることなどは極 、稀 であるため。
贅沢 を言うようだが、せっかくなのだから少しくらいは寛 ぎたいと思った。
そんな部下達、一人々 の背を撫 で下ろし。
労 いながら部屋を出る。
ノシュウェルは、溜 め息混 じりに言って項垂 れた。
「やれやれ、まったくだぁ ... 」
彼にも若干 、疲れの色が滲 む。
貸し切り予約をしていたので、多少なり騒々 しくとも何て事は無い。
迷惑を掛けるとすれば、ベッドに入っても一向 に寝付けず、
天井を睨 んでいるであろう宿主ぐらいかなぁ ... とは思うけれど。
例の主従 を休ませている部屋の前で、大袈裟 な身振り手振り。
おかしなことを言いはじめた統括責任者には、心底、参 った。
「貴様 に用は無い! フェレンスを出せと言っている!!」
「何卒 、お静かに ... ... そして、まず
興奮を鎮 めて頂かないことには、お取り次ぎ致 しかねますので ... 」
急ぐでも無し。のらりくらり。様子を窺 いに行ってみると。
階段の先には、入室を拒 まれるクロイツの姿。
「クドいぞ貴様 !」
「あなた様こそ。議会の意向に従 い決定を委 ねてはおりますが、
かと言って旦那様とあなた様の権威 が逆転する等 といった事は、決して御座 いません。
つきましては ... お取り次ぎするにあたり、理解可能なご説明を賜 りとう存 じます」
カーツェルの口振りからすると、また酷 く腹を立てているようだが。
「この ... どうでもいい時ばかり仕事熱心で、熟 、鬱陶 しい男だな 、貴様 と言う奴は!」
「おやおや、これはこれは ...
夜中に配慮 も無く押しかけておいて、どの口がほざく寝言かと思えば。
お察し致 しますところ、もしや ... 正気を枕元 に置き忘れて御出 では?」
部分的に毒を盛 っても比較的、真っ当な対応をしている。
彼の言葉を要約すると、こうだ。
寝 言 は 寝 て 言 え と 。
しかし何故 、わざわざ間 に立って口を挟 む必要があるのだろう。
ノシュウェルは疑問に思った。
そうしてクロイツの後ろに立ち、部屋の奥に佇 む後ろ姿を覗 いてみる。
聴こえているはずだが。
その背に、振り向く気配はない。
改 めてカーツェルに目を向けると、違和感が増した。
この男 ... 律儀 と言うよりは、過干渉 が度を越 しているようにも思える。
気にし過ぎだろうか。
一方。矢面 に立つ執事は詰 り合いの末 、投げやりに話を切り詰 めた。
「ともあれ、話にならなくては仕方がありませんので。今宵 はこれにて ... 」
そしてドアを閉めかける。 ... が。
「 然 う は 烏 賊 の 金 玉 ぁあぁぁぁ!!」
クロイツは素早く足を上げ、力一杯、蹴 り込んだ。
〈 ドガァアァァ ... ン !!〉
少年を抱 え塞 がった手の代わり。
あの細身が繰り出したとは信じがたい威力。
見ていただけだが、堪 らず身を竦 ませたのはノシュウェル。
彼は思った。
ぇ ... って言うか。 今、何つったの ... ... !?
待てよ。ほら、まず、アレさ。
〈ピ―――〉って伏せ音 入れなきゃ拙 いでしょ。
意味不明だし。え。何。辞書に載 ってる。嘘 でしょ。
――― 〈そうは行かぬ〉の〈いか〉に〈烏賊 〉を掛け、
そうはいかないということを洒落 ていう言葉。
って ... ... マジかよ ... ... !?
彼の部下に一人、情報通がいた模様 。
耳打ちされた瞬間、驚 いたが。
それを ... ... 知ってても、言う ... ... !?
次には部下と二人で絶句 する。
余程 、追い詰 められているのだなと思った。
「だから! 少年が喋 ったと言っている!!
いくら腐 り果 てた貴様 の頭でも、これくらい理解できなくてどうするのだ!?
分かるだろう!! 喋 ったのだ!! この! 少年が!!」
いやいやいや... ...
「そもそも、その少年とは以前から対話可能ですが ... どうぞ、お気を確かに ... 」
うん。まぁ、そうだよなぁ ... ...
聞けば聞くほど、腑 に落ちない。
呆 れるわけだと。
殊更 、カーツェルに同情する。
見れば、容赦 なく蹴 り込まれたドアの角 が額 に直撃したようで。
真顔 執事のおでこから、煙 が上がっているようにさえ見えた。
それでも尚 、クロイツは食い下がるのだ。
「そうではない!! あの分かり辛 い片言 ではなく!
まともな言葉を使って話しかけてきたのだ!!」
「 ... はぁ。そうですか」
最早 、目を合わせようともしない。
彼の羽織 るシャツの両襟 を掴 んで、揺 さぶる監視官は更に。
声を荒 らげ、こう続ける。
「いいか! 察 しの悪い貴様 にも分かるように言ってやるから、よく聞くが良い!
少年は先程、私に、こう言ったのだ!
〈 ... えっと。 クロちゃん、僕ね? シャマのところに、行きたいの。 連れて行ってくれる?〉
と! こぅ... 目を潤 わせてだな!!」
ところが、実演してみてようやく気付いたらしいのだ。
ウルウル と ... ... 真剣 に真似 して見せ、クロイツは ハッ... とする。
衝撃的すぎる上役 の奇行 。
驚 きのあまり全身を ビクリ! と跳 ね上がらせたノシュウェルが、居たたまれずに言った。
「さっきから何!? あなたという人が、そこまでする!?」
「煩 い!! と言うか貴様 !! 何時 からそこに居た!?」
そう、クロイツは、完全に我 を見失っていたのだ。
赤面、不可避。だが、それで済むなら、まだ救いようはある。
ところがだ。
「いえ、そこは、無理して頂かなくても... 結構ですから ... ... 」
〈クロイツ、まさかの本気〉にドン引きするカーツェルの拒絶感が半端 ない。
見ると、こちら側に向けた手のひらを プルプル と小刻みに震 わせ、
今にも血反吐 をぶち撒 けそうな表情で青褪 めているのだから。
それには、クロイツの腕の中で眠りかけていた少年もビックリ。
ヒッ ... と、吸い込む息を喉 に引っ掛ける。
「 ツ ェ ... .... ツ ェ ... ... ツェル ... ... シ、ヌ ? 」 ((゚д゚::: )) ガクブル
目を丸めて身震いする幼子 は、相 も変わらず片言 だった。
聞いていた者は皆 、思う。
これのどこが、まともだと ... ?
カーツェル、ノシュウェル、部屋の奥で背を向けたままのフェレンス。
目の前の男達を順に見て、クロイツはすっかりと肩を落とした。
そ ... そんな馬鹿な... ...
そうして、ゆっくりと少年をその場に下ろし、肩を揺 さぶりはじめるのだ。
「お、おい。お前。どうした ... 話が違うではないか ... 」
「 ン? ... ム?」
「お前はやれば出来る子であろう ... 何故 、言えぬのだ ... 」
「 ンム 、 ンム ムムムム ゥゥ ... ?」
「おい! しっかりしろ!!」
理由 も分からぬ少年は、成すがまま。
だが、遂 には目を回してしまったよう。
見兼 ねたノシュウェルが止めに入ろうとした時だった。
「しっかりすんのは ... テ メ ー の 方 だ ろ う ――― が !!」
腹 に据 えかね本音をぶち込むカーツェルが、思い切り蹴 り返す。
なのに何故 ... 転がされたのはクロイツではなく ... ノシュウェル。
『嘘 ... ナンデ... 俺 ガ ... コンナ 目 ニ ... ?』
肩口に受けた衝撃で大きく仰 け反 ったところ、途切れ 々 に脳裏を巡 った心の声。
〈 ゴロンゴロン! ドカッ!! 〉
「もおぉおぉおぉぉ!! いい加減にしてくれぇえぇえぇぇ!!」
我慢 の限界を迎 え、ベッドから跳 ね起きた宿主の怒声 が、近隣 に木霊 す夜。
フェレンスは、急拵 えの精油水 をガーゼに取り、静かに容器を置いて振り向いた。
たっぷりと汲 み取った溶液が手首を伝 い、袖口 に入る間際 。
対 の手の指先で雫 を掬 いながら歩み寄 る。
そんな主人の気配に気づいて振り向きかけたカーツェルだが。
スッ ... と肩口から差 し伸 べられた手の行き先へ、意識を持っていかれた。
手首を返すフェレンスの指先は、カーツェルの顔の輪郭 をなぞり霊草 の香 を鼻先に寄せる。
カレンデュラオイルとティートリー、それから、ゼラニウムだろうか。
香 る、それらの効力を惟 ると。
シャツの裾 から滑 り込む手。
「 ん ... ... ぁ ... ... 」
カーツェルは息を口に含 んだまま、声を殺した。
〈 ピチャリ ... ピチャリ ... ... 〉
耳の奥につく濡 れ音が、竦 み強張 る筋 の根元を震わせ。
腰 から脇 へ ... 背筋を撫 でるように上 っては下 る。
ガーゼを当てる手の爪先 が、肌に触れるか触れないか。
身体 の芯 に線を引かれるような感覚だった。
「殺菌、止血、皮膚の保護に配慮し調液したものだ。
純水で薄め、酒精 で馴染 ませてある。 多少、滲 みるだろうが ... 嫌ではないだろう?」
背後から囁 きかけるフェレンス。
艶 のある声を耳元で聞いたカーツェルは、顔を伏 せて黙り込み。
そのまま部屋の奥へと引き返してしまう。
取り残されたクロイツは目尻 を絞 り、フェレンスを睨 んだ。
「この ... 破廉恥 。変態。鬼畜 魔導師が ... ... 」
片 や相手は何を言われようと気にも留 めず。
小首を傾 げ口元に笑みを浮かべる。
... ... 確信犯か。
ノシュウェルは思った。
カーツェルに蹴 りつけられた肩口を擦 り、身体 を起こしながら。
機嫌を損 ねたカーツェルが大人しく引き下がることは無い。
しかし、だからと言って悪戯 に身体 を擽 り、羞恥心 を煽 るなぞ ... ...
「それが、〈友〉に対してすることか?」
「さて、何の事だろうか。 私はただ、応用してみただけ」
「応用 ? 」
「そう。幼い頃の彼は、よく小脇 を突 いて私を誂 った。
なので、多少なり悪ふざけに応 えやる必要もあろうかと、報復 してみたりもした。
すると、思いのほか大人しくなったものだから ... 」
クロイツが腕 を組んで聞くに対し、フェレンスは サラリ と返す。
「ああ ... そりゃあ、お前様 ... 」
聞いていたノシュウェルは言った。
「感じちゃったってヤツ ... ... 」
... ... ... ... じゃないのかなぁ。
けれども忽 ち、妙 な雰囲気が漂 い、思わず言葉尻を濁 す。
フェレンスからは何もない。
背を向け小瓶の並ぶトレイに布を戻す。
彼は無言だった。
黙っていなかったのは、クロイツの方。
「 ど う し て 貴 様 は ... そう余計な事を言う! この戯 けが! 気色悪い!」
先程から蹴 られてばかり。
部隊長は既 のところを スッス と躱 す。
「あぁぁあぁ!! すみません!!すみません!! 許して!!」
また同時に。何処 からか漂う冷気に気付いて両者は共に静止。
三人が揃 って振り向くと。
部屋の奥の扉が ビシビシ と音を立て凍 てついていくのが見えた。
枷 の刻印から漏 れだした冥府の炎 の影響だろう。
これは不 味い ... ...
目を回してぐったりしている少年を抱き直 したクロイツは、サッ... と立ち返る。
そうして更に。都合の良い話をしながら、その場を後 にした。
「さて。いい加減 ... 休むとしよう。
フェレンス。あとは貴様 で何とかするんだな。
我々 なら兎 も角 、宿主が凍え死んでは面倒だ」
すると、置き去りにされたノシュウェルを不憫 に思い、手を差し出すフェレンス。
心遣 いに感動し身体 を起こす部隊長は、あえて数歩、引き下がって見せたよう。
顔を上げると、クロイツの肩越しにこちらを覗 き込む視線。
幼子 は、何かを呟 いている。
その声を聞いたのはクロイツだけだった。
「 シャマァ ... シュキィ ... イッショ ... ネルゥ ... 」
寝言になりつつある片言 。
長時間の移動による疲れと眠気のせい。
この少年の扱 いについて、一存 では判断しかねるところ。
当局へフェレンスを引き渡した後 、上と掛け合うつもりではあったが。
何はともあれ、帝都に着いてみないことには ... と、そう思う。
「すまぬな ... 先程はうっかりと連れて行ったが。
今はまだ、お前と、あの魔導師を近づけるわけにはいかぬのだ。... 極力 な」
自室へと戻ったクロイツは、静かに扉を閉めた。
そして椅子 に座り、膝 の上に降ろした少年を抱く。
ゆらゆら ... ポンポン ...
身体 を左右に振 っては、小さな背を優しく叩く。
その動作は、まるで揺 り籠 。
やがて少年は、すっかりと目を閉じ ... 眠りについた。
一方、その頃。
カーツェルの引き篭 もった寝室の手前で扉を見つめる。
霜 で覆 われたその向こうに気配を感じながらも。
フェレンスは、声を掛けようとしなかった。
彼は、ただ静かに、ランタンの灯 りを落とし。
枝葉が梳 き降 ろす月影の下 、椅子 に腰 掛け瞼 を閉じる。
カーツェルの身体 に宿る炎 は、少年の強烈な魔ノ香による酔いを制 しきれていない。
有 り余 る力を抑 えてやることは可能だが。
クロイツに指摘されたばかりである。
友の努 めに過分な手出しは出来なかった。
何処 からか湧 き上がる負の思念と、
それを灼 くための蒼火が鬩 ぎ合い ... 血を求めて意識を掻 き乱す中。
両腕を抱え蹲 るカーツェルは、深呼吸を繰り返す。
じっとしているのが精一杯だった。
契約で得 た炎 によって魔力に餓 える。
それくらいの事であれば想定内だが。
まさか ... ...
主人、そして友人でもあるフェレンスや、幼い少年を襲 いかねない。
自分自身に対し、恐れを抱 くようになるとは思わなかった。
フェレンスは、知っていたのか ... ... ?
〈制約の翠玉碑 〉に記 されし禁忌 。
異端ノ法。
それを施行 するための契約に伴 う対価 。
あいつと一緒に成 すべきを成す、そのためなら命を懸 けても良い。
そう思ってしたことが、まさか。
カーツェルは思った。
フェレンスは、分け与 える事を厭 わない。
血を求められたなら、際限 なく差し出すだろう。
今夜は傍 にいられない。
彼の手首から ... そして首筋から ...
漂 う〈魔ノ香 〉に過剰 反応し意識が飛んでしまわぬよう。
せめて、この身体 の疼 きが、治 まるまでは ... ...
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