セナが居なくなった部屋に戻ると、セナの香水の残り香がまだ部屋に立ち込めていて、無性に寂しくなってしまった。 「はぁ……今の……夢かな」 　また、あの日みたいに唇に指を添わせてみると、俺の体には唇だけじゃなく抱き締められた感触さえまだリアルに残ってるせいで、途端に泣きたくなる気持ちを抑えられなかった。 　涙がひと粒だけ頬を伝って、なんで泣いてるんだろ…と自問自答する。 　セナの声が、言葉が、あり得ないくらいに俺の心を揺さぶっていて、味わった事のない感情が込み上げてきた。 　ゆっくりベッドに腰掛けてスマホを手に取り、セナが入力した番号を凝視する。 　セナは勝手に入力してたけど、「聖南♡」とご丁寧に♡マークまで付けて登録していて、それを見ると可笑しくて涙は引っ込んだ。 「これ自分で打ち込んだんだ……」 　セナがとても真剣な表情でこれを打っていたのを思い出して、ウケ狙いとかじゃなさそうだから尚更笑ってしまった。 　好きか嫌いかで聞かれれば、セナの事は好きだと思う。 　非の打ち所のない綺麗な顔と、低く少し掠れたハスキーな声、テレビと何ら変わらない明るくて真っ直ぐな性格は俺と正反対で羨ましいとさえ感じる。 　セナは物心つく前から今まで、ずっと芸能人として生きてきてるのに捻くれたところがなく、裏表が全くないのも驚いた。 　あれだけの人気者だから、天狗気味というか押し付けがましい所があってもよさそうなのに、セナは真っさらな想いを真摯にぶつけてくれた。 　こんなにも誰かに好きだと言われた事がないからか、相手がセナだからなのか分からないけど、恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちがごちゃごちゃになって、今自分がどんな顔してるのか想像も出来ない。 　スマホを握ったままゴロンと横になってみる。 　待ってられるか分からないと言ったのに、セナからの連絡を心待ちにしてしまってる俺は、セナの「疑うな」という言葉をすでに信じ始めていた。 「ここで……キスしたんだよね……」 　セナの車でしたキスは、きっと俺と春香を間違えてるから事故みたいなもんだってすぐに忘れようとしたけど、このいつも過ごす部屋で、しかもベッドの上でしたさっきのキスは嫌でも……毎日思い出しちゃうよ。 「……はぁ……どうしたらいいんだろ……」 　熱烈に想いを告げられて、俺はそれを拒否できなかった。 　俺より俺の事を分かったような口振りだったセナは、まだ俺からの返事を聞いてないのにニコニコで帰っていった事を思うと、俺はセナと付き合うって事になる、……？ 　だからと言って何が変わるんだろう。 　美南に叱られてからというもの、多少なりともテレビを見始めた俺は、最近新曲を出したCROWNが出演する音楽番組はほぼすべて見てたし、コンビニに行けば雑誌にはセナがたくさん載っているのも知っている。 　そんな多忙なセナの毎日に俺が関わるなんて現実味がなさ過ぎて、さっき来たのは本物のセナだったのかな？なんて変なゴールに行き着く始末だった。 　綺麗な人がゴマンといそうな芸能界に居るセナが、俺と付き合うなんて事はあり得ない気がして、いくら「疑うな」と言われてもなかなか信じられなくても無理はないと思う。 　ぐるぐるとまた負のループに迷い込んでいたその時、セナから電話が掛かってきた。 「わっ……！ ビックリした……。　LINEするって言ってたのに」 　振動音が響く室内で、俺は数秒「聖南♡」の文字を見詰める。 　セナの字、素敵だ。 名前まで綺麗だなんて、どこまで眩しい人なんだろう。 「…………どうしよう」 　俺なんかに血迷うなって伝えるために寝たふりしてシカトするか、聖南を信じてみるか……俺はほんとに迷った。 「…………もしもし」 　迷っている間も、手のひらの振動が止む事は無かった。 　聖南の字を見詰めていると、指が勝手に聖南を欲してしまう。 　俺は本気で迷いながらも、聖南の声が聞きたい、少しでいいから話したいって気持ちの方が大きくなってしまって、スマホを握る手に力が入った。 『あ、葉璃？　寝てた？』 「いえ……ウトウトくらいです。　無事にお家に着いたみたいですね」 『あぁ。　運転しながらさぁ、やっぱ泊まれば良かったなーって考えてたら葉璃の声聞きたくなって』 「……俺も、です」 　ほんの少しだけ疲れたような印象を受けて、聖南の声を聞いた安堵感からか素直に返事をした。 　時計を見ると、聖南がここを出てから三十分以上経ってたから疲れるのも当然だよ。 　この待ってる間、モヤモヤと考えてたのは聖南の事だけだったから、聖南がそんなに嬉しい言葉を言ってくれるなら、俺も正直になりたいと思った。