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── 一月某日 ── Ⅲ ネガティブ

3❥  無理やり千鶴を引き剥がし、「打ち上げ会場には直接行くから!」と言い残して聖南は急いで葉璃のあとを追った。  困った事に葉璃は足が速い。  聖南では追い付けないほどの俊足の持ち主だが、今追い掛けなければ葉璃は聖南の元から逃げてしまう。  現状の逃げではなく、聖南の隣から居なくなる。  早く誤解を解いてやらないと、最近ようやく言わなくなった「俺なんか」の口癖が再発してしまうではないか。 「こんなドラマみてぇな展開あるかよ!」  葉璃を裏口に呼んだのは聖南だが、人見知りで他人嫌いな葉璃は絶対に中へは入って来られないだろうと思い、迎えに行こうとしたのだ。  それをなぜか今日に限って扉を開けるとは、神様はなんと意地悪か。  そして走りながら思った。  葉璃は足が速過ぎる。  どれだけ聖南が長い足を駆使して全速力で走っても、小さな背中にはまったく追い付けない。  舞台会場は路地を一本入った少々寂しい道の一角に佇むので、夜も九時以降になると残業終わりのサラリーマンか酔っ払いしか居らず障害物も少なかった。 『追いかけっこしてる場合じゃねぇってのに!』  葉璃は今頃「別れなきゃ別れなきゃ別れなきゃ別れなきゃ……」とひたすら思いながら無我夢中で走っているに違いない。  どれだけ力強く抱き締めても、伝えきれないほどの愛を目一杯囁こうとも、葉璃の根本的な性格としてネガティブが存在する以上は少しの不安も与えたくなかった。  不運が重なってしまい、葉璃がまたこの手から離れてしまうかもしれない恐怖に苛まれながら、聖南も無我夢中で走った。  真冬だというのに全身が汗ばむほど、泣いているかもしれない背中を追い掛け続けた。  一本道が上り坂に差し掛かり、少しばかり葉璃の足が減速したのを確認した聖南は、ふくらはぎの筋が切れても構わないとばかりにラストスパートをかけていく。 「ッッ葉璃!」 「うっ……」  ようやく捕えた華奢な肩を掴むと、荒く呼吸する葉璃も立ち止まってくれた。  聖南の息も絶え絶えである。 「はぁ…、はぁ、…葉璃、お前足速過ぎ」 「……っ…っ………」  二人ともが前のめりになって両膝に手を付き、とりあえず呼吸を整える事に専念した。  数分間そうしていても、葉璃は何も言わずに黙って一点を見詰めている。  人通りが少ないとはいえマスコミが張っていても面倒だからと、聖南は葉璃の腕を取って個室がありそうな居酒屋に入った。  賑やかな居酒屋内の、気持ち程度の個室に通された二人はテーブル席にも関わらず隣同士に腰掛ける。  正しくは、聖南が葉璃の腕を取ったまま離さなかったのでそうならざるを得なかっただけだ。  ムッとした様子の葉璃は一言も喋らず、聖南とも目を合わしてくれない。  深く被っていた帽子を取り去り、ぺたんとなった髪をくしゃくしゃにして解してやりながら聖南は呟いた。 「別れねぇからな」 「………っ!」 「どうせ「別れる」って言うつもりだったんだろ。 連絡断って三日後くらいに」 「…………………」  ピク、と葉璃の体が反応した事で、聖南は自分の考えは正しかったと片目を細める。  紛れもない誤解をした葉璃の思考はすぐに極論に達するので分かりやすい。  別れなきゃ…と思っていたのだろうが、その表情は悲しんでいるというより怒っているように見えた。 「もう葉璃の思考回路は読めてんだから。 ……ごめん、嫌なもん見せて」 「…………………」 「俺が愛してんのは葉璃だけだ。 何も疑うな」  抱き締めて髪を撫でてみると、ジッとしていた葉璃が聖南の背中にじわりと手を回してきた。  ……良かった。  とりあえず「別れる」という選択肢が消えたらしい事に安堵し、ホッと胸を撫で下ろす。  だが、胸に顔を埋めた葉璃の小さな呟きに聖南はまたもあたふたした。 「………………でも……ぎゅってしてた…」 「してねぇよ!」 「してたもん…!」 「向こうから抱き付かれただけだ!」 「…………ほ、…ほんと……?」 「ほんと。 一瞬しか見てなかっただろ、葉璃」 「…そう、だけど……」  納得がいかないのか、ぐりぐりと聖南の胸元におでこを擦りつけてくる葉璃は、反論している最中も顔を上げてくれなかった。  せっかくの可愛い瞳を、今日はまだ拝めていない。 「葉璃、顔上げて」 「………嫌です」 「なんで。 顔見せてよ」 「…嫌です。 嫌」 「うりゃっ」 「…………っっ」  頑なな葉璃を抱き上げて強引に顔を見てみると、まだムスッとしていておまけにほっぺたが膨らんでいた。 「納得してねぇって顔だな」 「………そんなんじゃ…っ」 「ごめんな。 あんなドラマ展開予想してなかった。 今日の事は俺が悪い。 誤解させちまうもん見せて、ほんとにごめん」 「………………………」  抱き上げて頭上にある葉璃の瞳を真摯に見詰めると、ポッと頬がピンクに染まった。  葉璃の抱いた誤解が完全に解けるまで、聖南は腕を下ろすつもりはない。 「……葉璃ちゃん、…許して」 「………分かりました、分かりましたから下ろしてください…」 「許してくれる?」 「……ゆ、許します…。 そもそも誤解だったんなら謝んなくても…」  やっとまともに会話をしてくれるようになり、聖南はゆっくり葉璃を下ろしてもう一度抱き締める。  突発的で、しかも誤解とはいえ、ネガティブな葉璃には絶対に見せてはいけない現場を間近で見せてしまい、聖南は気が気ではなかった。

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