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「それからは、もう目まぐるしいものでした」
初めは元気よく泣いていたから、皆んな安心して気づかなかったのだ。
ふと気づけば、その泣き声はひとつしか響いていなかった。
急いで出て行った医者を呼び戻し、急遽オペが始まる。
『嘘……嘘よ、嫌!どうか助けて、助けて!!』と泣き叫ぶ奥様を社長が暴れないよう抱きしめ、その場所からまた別の病室へと移された。
私も再び心臓が冷える思いで、赤いランプが消えるのを待った。
やがてランプが消え、出てきた医者にポツリと言われた。
『上のお子さんの生命が不安定です。とても弱々しい……暫く様子を見なければなりません』
「それから、奥様は上の子…ハル様につきっきりでした」
アキ様はその手に抱けたのに、ハル様はまだ一度も抱けてなくて。
それもあったのか、医者や看護師に何度止められてもハル様のいる保育器へ向かい、ハル様を見守った。
急に変わる体調、度重なるオペ、苦しげに泣くハル様……
そのどれもに、奥様は震えながら「ごめんね」と涙を流していた。
「社長や私が仕事で病院にいない間も、奥様はおひとりでずっとハル様を支えておりました」
『シキ、お前は落ち着くまでアキを見ていてくれないか? 私はハルとフユミにつく』
『かしこまりました』
パタンと社長が出て行き、静かになる病室。
広いベッドにはアキ様がおひとりでスヤスヤ眠っていた。
『……アキ様』
その体を、そっとベッドからすくい上げる。
『クスッ。髪色は、奥様似でしたね』
色素の薄い、サラサラの髪だ。
目の色や鼻の形などの口のパーツは、所々社長に似ている。
だが、ふわっと笑うその表情は紛れもなく奥様のもので。
『ねぇ、アキ様』
今は、おひとりでとても寂しいですね。
せっかくの兄弟なのに、ベッドも離れ離れで……
そして、ここに月森しか顔を見せることができず本当に申し訳ありません。
(ですが、もう少しです)
きっと…きっともう少し。
もう少ししたら、ハル様の体調も安定しアキ様同様元気になられる。
そうすれば、奥様も肩の荷がおり一息つけるだろう。
『ですから、もう少しだけ……この月森で我慢して下さい』
小さな小さなその存在に胸をぎゅっと締め付けられながら、ただただ……ハル様のことを祈った。
「その後、3か月ほどが経ちました。
ハル様の生命もようやく落ち着き、無事その手に抱くことが出来た」
保育器からやっと出て来られたハル様を、奥様は涙ながらに抱きしめたという。
私はアキ様につきっきりだったのでそれは社長から聞いた話だったが、本当に安堵した。
『…シキ………』
カラリと扉が開き、奥様が久しぶりにアキ様のいる部屋に顔を見せる。
『っ、奥、様……』
ーーその顔は、一言で言えば疲れ果てていた。
サラサラの髪は傷んでおり、頬も痩せこけているように見える。
目もやや虚ろで、泣いていたのか目元が赤くクマも出来ており……見ているこちらが痛くなる程だった。
『貴方に、報告をしにきたの』
『ハル様の…事でしょうか……?』
『えぇ。やっと状態が落ち着いて、保育器から出ることが…できて……っ』
『奥様』
再び涙ぐんで震える肩に、そっと寄り添う。
『報告ありがとうございます。心配しておりました、安心いたしました』
『ごめ、な…さ……』
『いいえ、責めているのでは御座いません。奥様もハル様と共によく頑張られました。奥様、良かったですね』
『っ、本当に…よかっ……』
『クスクスッ。
さぁ、涙を拭いてください。久しぶりに顔を見せられたのに泣いていては、アキ様もびっくりされてしまいますよ』
『…………〝アキ〟…?』
『ーーぇ、』
キョトンとした泣き顔で私を見上げる奥様の目を、半端呆然と見つめ返す。
『お、くさま……? アキ様ですよ。ハル様の弟です。
ほら、あちらで目を丸くして貴女の事を見ているではありませんか』
『おと、うと………あぁ、そうだわ、そうね。
ごめんなさいっ、私…何だかぼぉっとしてしまって……』
『その様ですね。ハル様ももう安心ですし、本日はゆっくりと眠られてください。
お帰り前にアキ様を抱いていかれますか?』
『えぇ、勿論よ』
ベッドからゆっくりとアキ様を抱き上げ、それを奥様へ渡した。
『お久しぶりのアキ様はいかがですか?
初めて抱き上げられた時より、重くなられているでしょう?』
『っ、ぁ、そうね……
とても、重くて…大きくなっているわ……』
『…………?』
(いかがされたのだろうか?)
久しぶりの我が子なのにもかかわらず、キャッキャッと笑うアキ様へ笑いかけるその表情は硬く……ぎこちない。
楽しそうに、アキ様が奥様へと小さい両手を伸ばす。
それに恐る恐るというように奥様が指を持っていくと、それをキュッと小さく握られた。
ーーそれに、ビクリッと奥様の体が大きく波打った。
『奥様……?』
『っ、ご、ごめんなさい、久しぶりだからつい……
駄目ね私っ、少し疲れているのかしら。今日は先に帰るわ』
パッと握られているアキ様の手を指から解き私へアキ様を預け、まるで逃げるように……パタパタと出て行かれてしまった。
突然抱かれていた暖かな温もりが消え泣き始めるアキ様を、ゆっくりとあやす。
『………奥様……?』
一体、如何されたのだろうか。
本当にあれは…ただの疲れか……?
(あの目は……)
あの動揺で震える瞳は、疲れの所為だけではなかったように見えるがーー
(…まぁ、仕方のない事かもしれないな)
ようやく我が子の生命が安定し、2人とも落ち着くことが出来たのだ。
これまでの事を考えると、奥様の頭の中がハル様でいっぱいになっているのも納得がいく。
泣き疲れてウトウトし始めたアキ様に、クスリと笑いかけた。
『アキ様。これからですね』
(お兄様ももう安心ですよ。早く会いたいですね)
これから来るであろう賑やかな日々を想像して、ポーカーフェイスではなく心からの笑みを浮かべながら
眠り始めるアキ様を、そっとベッドへと戻した。
そして、そんな日々など決して来ない事を
この時の私は、知らなかったーーーー
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