1 / 106

第1話 黒猫

 突然、上から大きな手で頭のてっぺんを押さえつけられた気分だった。視界も何もかも、その大きな手で塞がれて、手をどこに置いて登っていけばいいのか、進めばいいのかわからなくなったんだ。  道が、あの時、消えたんだ。  何、してんだって思うよ。  今、自分がありえないことしてるって自覚ならちゃんとある。 「…………さみ」  応援してますとかさ、たった一言だっていい、何か伝えられたらいいと思っただけなんだ。 「おーい、こんなところで寝てると風邪引くぞ」 「……」  そう、せめて、応援してますって言えたらいいなって思っただけ。途方に暮れた俺は、ただ会って、話しかけたかっただけなんだ。頑張ってくださいって言えたらって。 「この辺に住んでんのか? そんな格好じゃ寒いぞ。うち、どの辺だ?」 「……」 「おーい、大丈夫か? 手ぶら? もしかして、全部盗まれたとか?」  俺は、あんたを知ってる。 「もしそうなら」  そんななりをしてるけど恋愛小説家だって、俺、知ってるんだ。がたい良くて、ちょっと無骨な感じ。新人賞を獲ったけれど、そのあとは鳴かず飛ばずで、ヒット作には恵まれてない。長い髪を束ねて、執筆の時には眼鏡をかけるんだろ? 本の後ろ、写真の中のあんたは眼鏡をしてた。原稿を書いている最中だったのか、しかめっ面をしてた。斜め横に首を傾けて俯いた顔は少し気難しそうだった。 「警察行ったか?」  なぁ、けどさ、俺、見たことあるんだ。あんたの笑った顔を知ってる。  猫を、拾っただろ? あの猫は、今、どうしてる? まだ、あんたのところで可愛がられてる? 「なんだ、行ってないのか? 殴られたとかじゃ……顔、傷なさそうだけど」  黒い猫、拾っただろ?  ある出版社の脇、ほんのちょっとあった隙間のところにうずくまっていた、みすぼらしい黒い猫だよ。あんたはその猫をただ一人見つけて抱きかかえた。「なんだ、痩せて、骨と皮だけじゃねぇか」って優しく、両手で拾ったんだ。 「財布、ないのか?」 「……」  首を横に振り続けると、頭上から小さな溜め息が聞こえた。  久瀬成彦(くぜなるひこ)、作家名も名前も同じって知ってる。売れてないけど、あんたの小説、全部持ってるんだぜ? 最新のもあんま売れてなかったけど、でも、俺は好きだった。 「落としたのか? そりゃ、災難だったな」  何か一言でも言えたら、いいなって思ったんだ。俺は、猫じゃないから、あんたには拾ってもらえないってわかってる。ただ会ってみたかった。  一言でも何か言えたらそれだけでいいって思っただけ。  もう無価値になった俺は別に慰めてもらいたいとか、何かして欲しいとかじゃないよ。淡い期待を持っているとしたら、笑ってくれたらって思ったけど。その、あの黒猫に笑ってやったみたいに、笑ってくれたらって思ったけど。 「す、すみません。なんでもないっす」 「……」 「警察、呼ばないでください。もう、行くんで」 「っとと、おい!」  俺は猫じゃないからさ。拾ってはもらえないだろ? 「行くって、無一文で、どこに行くんだ?」  大きな手だった。この手で、あの黒猫を抱き上げたのか。 「交番、あるけど、そこ常駐じゃねぇから、おまわりさんいねぇぞ。いるんなら駅前だ。駅までの道わかるか? ……って、わかんねぇのか?」 「だ、大丈夫っす」  わかってる。俺は黒猫じゃないから、どんだけ弱ってたってさ。 「……大丈夫ってなぁ……」  拾って、抱き上げて、あの一言を言われて、笑ってもらえるわけじゃない。どん底で、もう、何もかもが真っ黒に塗り潰された気分になろうが、そんなのはあんたには関係のないことだってわかってる。  でも、笑って欲しかった。  優しくされたかったんだ。  あんたに。誰でもなく、あの日、あのみすぼらしい猫を抱き上げたあんたに。 「それ、綺麗な色だな」 「……え?」 「カラコンか? 眼」  眼? あぁ、これのことか。 「……あ、いえ……」 「……ふーん」 「す、すんませんでした」 「なぁ」  久瀬さん、の、横を通り過ぎようとしたら、甘い香りがした。甘いブランデーの香りに混ざる、人工的な香り。女がつけてそうな香水の香り。 「交番、行くの?」 「……」 「なんか、訳ありなんか?」  猫、だったらよかったのに。そしたら、あんたに拾ってもらえたかもしれない。猫だったら、抱き上げて、その懐に。そして、俺は俺としてじゃなく、あんたの猫として。 「名前は?」 「……」 「何か住所わかるものあるか? あれば、タクシー代くらいやるよ」 「……」  俺は今日、全部真っ黒になったから、それならいっそ、視界だけじゃなく全身が真っ黒になってくれたらって。名前もなんもかんも黒で塗り潰してしまえたらって。 「ん? 名前」  わかってる。そんなの無理だって。ありえないってわかってる。わかってるけど。 「名前……わからない」 「え?」  俺の中にある、もういらないものを全部を道端に捨ててさ。この身ひとつになったら、あんたに、あの時拾われた黒猫みたいに、拾ってもらえたりしないかなって、神様にも笑わせそうな願いを持ったんだ。 「わからない、ん、です……」 「……」  全部捨てる。何もかも、だから、代わりに、俺をあの時の黒猫にしてくださいって願ったんだ。 「名前、も、全部。けどっ」 「……とりあえず」  なんて、ありえるわけない。笑えるだろ? 神様なんていないのに、声をかけてくれたこの人がたまらなく優しかったから、ついさ。 「その、もうここどくんで」 「ちょ、おいおい」  この大きな手でも、人間は抱き上げてはもらえないってわかってるけど。でも――。 「すいませ」 「とりあえず、うちでコーヒーでも飲んでけば? いいぜ?」 「……え?」 「お前、どんだけここにいたのか知らないけど、手、氷みたいに冷たいぞ。駅前の交番まで、歩いて三十分、その薄着で歩かせるっつうのは、さすがに罪悪感がな」  この人に、拾って、欲しかった。 「うち、ここのマンションだ」  神様も大爆笑。冗談にもならない願いだけど、たしかに、俺は願って、ここでこの人を待っていた。

ともだちにシェアしよう!