2 / 106

第2話 泥棒

『全治、というのもその症状改善のレベルにはよるんです。貴方の場合、そうですね……』  主治医の無機質な説明を、俺はぼんやりと聞きながら、どこか、安心もしたんだ。悲しいとか恐怖とかの隙間で、ホッと、深呼吸するような自分がたしかにいた。  あぁ、これでオリンピックの選考からは確実に零れられるって。  あの家での俺の価値はこれでゼロになる。無価値になれば、もう追い立てられないだろう? 無関心になってくれる。あの人たちの考える「枠」の中からは除外されるって。  清々した。これで俺は自由だ。  けど、そう思ったら、急に、無性に会いたくなってしまった。  久瀬さんに会いたく、なっちゃったんだ。  会ってどーすんの? 向こうは俺のことなんて、これっぽっちも知らないんだ。それより、素性とか、色々知られたら、それこそ向けられるのはきっと憎悪なのに。なんで、会いたいとか思った?  会ってみたい、なんて。  拾って欲しい、だなんて。  図々しいにもほどがある。それこそ、兄さんが言っていた「あの女にそっくりだな」ってやつだ。母さんみたいに、玉の輿だと、怪訝な顔も、嫌味な物言いも全部かわして乗り込んだ図々しさが、ちゃんと遺伝子レベルでお前にも染み込んでるんだなって、嘲り笑われる。  それでも、あの黒猫みたいに、拾い上げて欲しいと願った。 『半年は生きたんだけどなぁ。拾ったんだよ。まぁ、その時相当弱ってたんだろうなぁ。まだ秋だっつうのに、その日は急に寒くて。俺が帰った時には冷たくなってた』  あの猫、死んじゃったのか。  可哀想に……と、久瀬さんが窓際に置いてあった黒猫の写真の脇、黄色の首輪を指で突付いた。  俺はそれをじっと見つめてた。写真立ての中にいる黒猫は俺が見た時よりもずっとふっくらと真ん丸な輪郭で、金色の瞳をまるで満月みたいに丸くさせていた。  その猫に代わりにしてくんねぇかな、なんてぼんやりと考えながら。 「おーい、大丈夫かぁ?」 「! は、はいっ!」 「なんの音もしねぇからぶっ倒れたのかと思った」 「あ、いえ! すんませんっ」 「いいよ。ちゃんとあったまれよ。着替えここに置いておくな」  久瀬さんのシルエットが曇りガラスの向こうで動いてた。 「あ……りがとう、ございます」  おう、って返事をしてそのシルエットは消えてしまった。  低い声が優しくて、俺は、この柔らかくあったかい湯船以上にその声に身体の芯まで温まる。  俺は、クライミングの選手だった。  そう、もう過去形だ。数日前、この肩じゃあ今までどおりのクライミングはできないと言われたから。治療とリハビリをすればいつかは肩のコンディションが戻るだろうけど、今すぐには無理。オリンピックの選考を兼ねている次の大会に出られないのなら、もうこの肩に用はない。  もう、俺は、家族、いや、あの家の人間にとって用のない奴だから、家を出た。  そして、久瀬さんの住んでるとこ知ってた俺は、待ってた。  つい、記憶がないふりをした。そしたらさ、なんもない可哀想なガキっていうふうにしたら、あんたが拾ってくれるかもしれないって思ったんだ。みすぼらしい黒猫みたいに、うずくまってたら。 「あ、あの、お風呂、ありがとうございました」 「おー、いいよ。別に」 「あの」  記憶も何も失くしてしまった、途方に暮れている哀れなガキってことにしたらさ。陳腐だけれど、陳腐すぎて信じてくれるかもしれないだろ?  そんな嘘をつく奴はいないって。 「っぷ、サイズ合ってねぇ」 「!」  俺は、貴方がすごく優しい人だって知ってるから。 「お前、チビってわけでもないのに、わりぃな、俺がバカデカイんだわ。そんなのしかなくて申し訳ねぇけど」 「あ、いえ!」  ゴミ、と間違えわれて回収車に放り込まれても抵抗すらできなかっただろう黒猫を優しく抱き上げる人だって知ってたから、付け込んだ。  ホント、母親にそっくりだよ。  ホステスをしていた母が金持ちの親父に取り入って、愛人だろうとなんだろうと、必死に子ども作って、後妻の後釜にしがみついたみたいに図々しい。 「あの、洗って返します」 「って、お前、思い出したの?」  でも、記憶を心底なくしたかったから、消せるものなら消したいよ。あの家のことを丸ごと消去できるのなら、自分の名前もいらない。 「……いえ」 「まったく思い出せないのか?」 「……はい」  いらない。家族も、友人も、この肩だって、もう必要ない。 「そりゃ、不安だろ?」 「……」 「気がついたら、あそこにいたのか?」 「……はい」 「頭は? どっか、痛まないか?」 「……いえ」  ふるふると横に振った。久瀬さんはひとつ溜め息をついて、重たそうにソファから立ち上がると、ひとつにまとめて縛った髪をその大きな手でわしわしと掻きながら、キッチンへと向かう。  それを、視界の端で見つめてた。  もしも病院へ行けと言われたら、そこでお礼を言って帰ろう。あのうちに帰って、そんで、きっとしばらくしたら本当に追い出されるだろうから、その時、この服を持って、改めてお礼をしよう。 「ほら、コーヒー」 「……え?」 「飲めないか? コーヒー苦手なら、お茶」 「あ、いえ! そうじゃなくてっ」  そして、あの家も、なんもかんも消えたことにして、ひとりでやっていこう。  いらない。  記憶も、過去の経歴も、そして。 「あの、コーヒー……」 「しばらく」 「……え?」  この人を傷つけた、あの家のことなんて、いらない。だから、全部、捨てよう。 「しばらく、いてもいいぜ?」 「……」 「記憶、戻るまで、でも、いいし。お前がいたいだけ、いていい」  この人を傷つけた、あいつらのことなんて。 「……ぇ」 「俺は、かまわないよ」  ごめんなさい。  貴方の大事なものを、あいつらが盗んだの、知ってるんだ。貴方が頑張って書いた小説を盗んでしまったこと、知っています。俺の兄が、盗んだって。 『いやぁ、ネタはいいんだけどさぁ。どうにも見てくれがねぇ。あれじゃ広告したって無理だわ。だから、新人でいただろ? イケメンのモデル、小説家に華麗に転身。あいつにこのネタ振ろうと思う。うん。そう。そしたら、また業績上がるでしょ、アハハ』  父親不在の夕食会、遅れて来た兄がそんな電話をまた別の兄としていたのを聞いた。 『久瀬成彦っていう作家の卵だよ』  ごめんなさい。久瀬さん。貴方から兄が小説を盗んでしまったことを、俺は盗み聞きして、知っていたんだ。

ともだちにシェアしよう!