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第3話 猫になった日

 ほぼ毎日、落ちる夢を見ていた。あのストーンを掴もう、そう思って伸ばした手はストーンを掴むどころか滑ってそのまま、まっ逆さま。何度も、何度も、そんな夢を見ては飛び起きてた。  なのに、今日はそんな夢を見ないなぁって、身構えながらそんなことを考えてたんだ。 「あーしまった。なんだ、これ、丸焦げじゃねぇか」 「!」 「あ、起きたか? おはよう」 「……」  いつもはそんな悪夢で飛び起きてたのに。今朝は。 「寒くなかったか? お前、ソファからはみ出て寝てたから、足ンとこ、俺のコートかけてやったんだけど」 「……」  言われて自分の足元を見ると、今にも落っこちそうに、昨日、久瀬さんが着ていたチャコールグレーのコートが引っかかっていた……んだけれど、身じろいだせいで落っこちた。 「す、すんません」 「いいって」  いつもは夏でも冬でも汗びっしょりになって起きるのに。今朝は、そんなことなかったな。あと、足、あったかかった。飛び起きたのは恐怖心からじゃなくて、ただ、なんか、焦げ臭くてびっくりしただけ。 「? 焦げ……?」 「あぁ、悪い。お前、朝飯食うかなと思って、目玉焼きやろうとしたんだ」 「……」 「いっちゃん簡単かと思ったら、けっこうムズいのな」  部屋が、広いのに牢屋みたいに感じる俺の部屋じゃなくて、狭いけれどあったかくて、焦げ臭いのが充満した部屋。  そして、久瀬さんがいる。あの、久瀬さんが。 「どうだ? なんか、思い出したか?」 「!」  慌てて首を横に振った。そうだった。俺、昨日、久瀬さんとこに泊まらせてもらったんだったっけ。  記憶のない迷子ってウソをついて。 「……そっか。まぁ、そのうち思い出すだろ」  ごめんなさい。思い出すも何もない。忘れてないんだから。でも、捨ててしまいたいほど不必要なものだから、もう思い出したくない。 「あ、あの、俺作りましょうか?」 「できんの?」 「簡単なのなら」 「おお、それはありがたい」 「いえ、お礼にもならないですけど」  それにしても、すごいな。目玉焼き丸焦げじゃん。  なんか、不思議だ。久瀬さんって家事能力ないんだね。でも、前に書いたさ、「光の食卓」っていうOLさんが主人公の小説んとき、すっごく美味そうな食事風景がいっぱい書かれてたのに。それ読みながら、腹の虫が騒がしくなったんだ。あれ、けっこう好きだった。優しいお話でさ。あんな食卓で食べたいって思ったよ。  まさか、それ書いた人が目玉焼きを丸こげにするなんて思いもしなかった。 「水、入れました?」 「水、入れんの?」 「はい。蒸すんです。正確には」 「目玉、焼き、なのに?」  変なの。あと、ちょっと可愛い。 「っつうか、それは覚えてんだ」 「えっ? ぁ、えぇ」  しまった。バカだな、俺は。 「な、なんでか、そういうのは覚えてるみたいです」 「へぇ、まぁそうだよな。日本語話してるし。風呂も教わらずに入れる。脳みそって不思議だなぁ」 「……そ、ですね」  記憶ない設定になってるんだって、急いで胸の中で何度も呟く。じゃないと、また、つい、ぽろっと言ちゃいそうで。 「俺、半熟のがいいな」 「あ、はい」  久瀬さんって、半熟の目玉焼きがいいんだ。そっか。実は俺も。 「ソースと絡めて食べる感じで」  え、マジで? それ、美味いの? 俺やったことない。家ではそういうの、下品だっつってやらせてもらえなかったんだ。塩がすでにかかってたし。ソース、かぁ、いいかも。  って、危ない、また、ぽろっと言っちゃいそうになった。俺、ソース絡めたことないんですとかさ。 「そしたら、俺、パン焼くわぁ」 「あ、はい。お願いします」  俺は記憶喪失。 「なぁ、クロ」  俺はなんにも覚えてない。もう全部捨ててしまおう。そうだ。財布、あれもうどうにかしないとだよな。昨日、風呂借りる時にズボンのポケットに入れて、そのまま服ごと丸めたけど。 「クロ」  見つかったら、名前がバレちまう。 「おーい、クロ」 「……」 「クロ」  俺? 「そうそう、お前のことだよ」  クロ? 「名前ないと、困るだろ? かといって、名無しじゃなぁ、何かと呼びづらいし。そんなわけで宜しくな、クロ」  記憶は、失くした。過去の自分は昨日の時点で消えてしまったことにした。だから、もう財布もいらない。見つかると困るんだ。 「そんで、クロ、洗濯したいから、昨日の服出しとけ」 「……ぇ、あ、あの、は、はい」  洗濯、してくれるってことは、本当に、俺をここに置いてくれるの? って、ヤバイ。もたもたしてると、久瀬さんが持っていってしまう。財布を持っていることを知られてしまわないよう慌てて、服を確保した。目玉焼きを蒸している数分の間に、まるでスパイのごとく財布から身分がわかるものをこっそり抜き取って、それを、キッチンの生ゴミと一緒にしてしまう。 「クロー、服、出したか?」 「あ、はい。あ、あの、これ」 「?」 「ポケットに入ってたお金」 「……」  現金だけが残っていた設定にして、身分のわかるものはひとつもないことにしてさ。そんで、久瀬さんに全額渡す。 「いやいや、それは」 「もらってください」  あんたの知らないところで、俺はあんたから名前を買おう。 「記憶戻るまで、たぶん数日、だと思うんですけど、その記憶戻るまで世話に、その」 「あぁもちろん。けど、いいんだぜ?」 「いえ! それと、その家事とかやりますんで!」 「家政婦ってやつ?」  コクンと頷いた。たったの数日でもいい。あんたがいい加減にしろって怒って追い出すまででもいい。暫くの間でいいから、あんたの猫にならせて欲しいんだ。家事全般やるから。  ちょっとの間だけでも、なりたい。 「お願いします」 「……」 「あのっ」  貴方の黒猫になりたい。 「俺は久瀬成彦」  拾ってください。このお金の分だけでいいから、俺のこと。 「職業は売れない小説家」 「……ぁ」 「そんで、お前は」 「クロ! です!」  思わず前のめりで答えてた。あまりにすごい勢いだったんだろう。あんたは笑った。 「あぁ、宜しくな、クロ」  そういって笑って、俺にその名前を売ってくれた。握り締めていた現金を受け取って、笑って、新しい名前を俺にくれたんだ。  ――宜しくな。クロ。  あんたは知らないことだけれど、でも、それは、俺が生まれて初めて、なりたかったものになれた瞬間だったんだ。

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