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猫に媚薬 4 猫と散歩

 意識……飛んでた。  気がつくと、朝で、俺はシャワーも浴びて髪も全部ふわふわに乾かしてもらっていた。シーツもバスタオルも全部洗ってもらって。  ――もうその辺りから記憶ないのか、すごいな。  そう言って久瀬さんは楽しそうに笑っていた。  シャワーはちゃんと自分で浴びたんだって。もちろん、久瀬さんも一緒に入って、身体を洗いながらそこでも抱いてもらったって、のぼせてしまうんじゃないかって久瀬さんは少しヒヤヒヤしたと翌日教えてくれた。  ――そのうち本物の尻尾が生えたりするかもな。  言いながら、腰から尾骶骨の辺りを撫でられると、ジンと気だるい熱がそこに滲んだ。たくさんたくさん、無我夢中になって抱いてもらった時にたまに感じる気だるさだった。  そのくらい、なんでか。  ――またたび、のせいなのかもな……。  なんでか、あの夜は発情してた。頭の芯がジンジンと疼いて蕩けて、指先はひどく敏感なのにどこかノロマで、  けれど、そのまたたびの効果は翌日には消えていた。久瀬さんがまたたびの枝を手にした指で俺に触れても、いつものように心地いいだけで、あんな熱に冒されたように頭がぼーっとはしなかった。恐る恐る自分から、またたびを鼻先に近づけてみたけれど、特に……何も……なくて。  二人で首を傾げるばかりだった。  なんだったんだろうなぁって。  ひとつ、あり得ないけれど、ほんの少しだけ思い当たるというか、もしかしたらって思ったっていうか。  あの日、猫を助けたんだ。  俺が持っているのと同じ赤い指輪をした猫が轢かれそうになったのを寸前で助けた。  まさかねって思いつつ、他に原因になりそうなものなんて特になくてあり得ないってわかってる。馬鹿げてるって、思う……けど。 「……いた」  猫の散歩の時間って大体同じって言ってた。  でも、あの時、怖い思いをしたからもう別の道に行ってしまったかもしれないと思った。 「お、おーい……」  けれど、あの猫はそこにいた。 「おーい……」  垣根のところ。ツツジ、かな。なんとなく一箇所窪んでいるように見える辺り。もしかしたら俺が突っ込んでそうさせてしまったのかもしれない辺りに、黒猫が一匹、ちょこんと座っていた。鈴付きの赤い首輪をした黒猫。道を渡るのだろうか。でも、渡るような素振りはなくて、ただじっとその車が行き交う道路を見てた。 「こ、んにちは?」  答えてくれるわけないのに。そもそも猫と会話なんて普通しない、のに。 「……にゃお」 「!」  答えた。そのことにすごく驚いたけれど、その猫はじっとこっちを見つめて、ひとつ返事でもするように鳴いて、すくっと立ち上がると足音もなく近寄ってきた。 「あ、の……」 「にゃお」  ほら。  やっぱり。  まるで、この前ここで会った友達にまた会えるかなと待っているみたいだった。道を渡ろうとはしてなくて、この辺りだったんだけどなぁって待っているような感じ。 「この間、助けた、お礼……を、ありがと」  おかしい、よね。側から見たら、すごく。けど。 「あの……」 「にゃお」 「!」 「にゃお」 「あの、またたび、とかすごく効いた」 「にゃお」 「でも……」  ずっと猫になりたかった。そしたら久瀬さんの膝の上に座って、執筆の邪魔にもならなくて、たくさん撫でてもらえそうだし。 「でも、結構人間してるの、も、楽しいから」  そうなんだ。  最近、そんなに。 「ありがとう」 「にゃお」  どういたしまして、って言われた、みたいな。 「また、そのうちここで会おうね」 「にゃお」  そうだねって、言われた、気がした。 「おーい、クロ」  その時だった。 「あの人が俺のご主人様、なんだ」 「にゃお」 「俺の大好きな人」 「にゃお」 「それじゃあ」 「にゃお」  手を振ると、尻尾の先端だけをゆっくりパタパタと振ってくれた。まるで、手を振るみたいに。 「久瀬さん」 「どうかしたか? 黒猫?」 「あ、うん。どこかの飼い猫みたい」 「へぇ」  チラリと振り返ると、さっきの黒猫は垣根に沿って歩いていく、と思ったら、ぴょん、とブロック塀の上にジャンプして、そのまま壁の向こうへ降りてしまった。道を横断するルートは別の散歩ルートに変更になったみたいだ。  バイバイ、またね。 「お前の猫友達か」 「……うん」  ずっと猫になりたかった。 「そうか」  そしたら、足音も立てずに、この人の邪魔にならずにそばに居られるから。膝の上でいくらでも撫でてもらえて、可愛がってもらえるから。だから猫になりたかった。 「またたびは効くし、猫友達もできるし」 「……」 「ったく」  けれど、最近、そんなに。 「本当の猫になるなよ?」  そんなになりたいと思わなくなってきたんだ。 「まぁ、またたびは効いてくれていいけど」 「や、やだよ……もう」 「俺は楽しかった」 「も、もお、久瀬さんってば」 「いや、だってお前」 「もぉ」  だって、人の姿のままでも俺はこの人の邪魔にならずにそばにいられてるらしいし、人のままで撫でてもらえて、可愛がってもらえるから。 「それにしても酒屋遠いなぁ」 「結構距離あるって言ったじゃん。自転車だから近いってだけで、歩いたら」  だから、最近は人間のままでかまわないって、そう。 「まぁ、いいよ。愛猫と五月晴れの青空を散歩なんて、ぐーたらな小説家にしかできない特権だ」  このままでかまわないって、そう、思うようになったんだ。

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