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終-2:午後0時の祈り (7)

集中治療室(ICU)。 全面ガラス張りの扉の向こうに、等間隔でベットが並んでいる。 葉瑠兄の白い背中を追いかけながら、たくさんの患者の足元を通り過ぎた。 どの人もみんな一様に青白く見え、俺は思わず視線を逸らした。 理人さんは、一番奥にいた。 細い身体にたくさんの管が繋がっている。 右腕にも、左腕にも、指先にも、太ももにも。 初めてみるような太い管から、見慣れた点滴用の細い管まで、全身に何本も。 あのの理人さんが、よくここまで泣かずに頑張ったなあ。 そう思いかけ、ハッとした。 きっと理人さんは、自分になにが起こっているかなんて分かっていない。 痛みなんて、感じるはずがないんだ。 どこからか、乱雑なエアー音が聞こえてくる。 それは時を刻むように規則的に繰り返され、その度に酸素マスクが曇り、理人さんの胸が不自然なほど大きく上下した。 上半身はクリーム色のシートに包まれ、下半身はアルミフォイルのようなものに覆われている。 体温の低下を防ぐための措置だそうだ。 ピッ……ピッ……ピッ……。 ゆったりとした一定のリズムで高い電子音が鳴り響き、それが理人さんの心臓の鼓動だと知る。 葉瑠兄は急に医者の顔になり、理人さんの手首を持ち上げたり、額に触れたりしていた。 点滴のラベルを確認し、口の中でなにかをもごもごと呟いている。 俺には、なにも分からなかった。 モニターが映し出すふたつの波形の意味も、左端に並ぶ大小さまざまな数字の意味も。 ただわかるのは、理人さんがそこにいて、生きているということだけ。 この仰々しい空間に似合わない穏やかな表情は、まるで彫刻のように整っていた。 俺は理人さんのこの顔を、この一年、数えきれないくらい見てきた。 時には思わずこっそり写真を撮りたくなるくらい、綺麗で、かわいい寝顔。 見るたびに心癒されてきたはずなのに、今はただ―― 「英瑠」 葉瑠兄の声が苦しげに俺を呼んだ。 反射的に広げた手のひらに、トスン、と落とされたのは、銀色の指輪。 ああ、そうだ。 さっき処置室で、外れなくなる可能性があるから取っておくと桐嶋先生が言っていた。 ついさっきまで、理人さんの薬指にはまっていたエンゲージ・リング。 それなのに、とても、 冷たい。 俺のとよく似た葉瑠兄のふたつの瞳が、まるで手負いの獣を労わるように俺を見守っている。 なんでそんなひどい顔で……ああ。 もしこのまま理人さんが死んだら、この指輪が形見になるのか。 そう理解して、 震えた。 「……理人さん」 触れた二の腕は硬く、氷のようだ。 「理人さん、起き……起きてください」 理人さんは、寝起きが悪い。 「なに、寝てるんですか」 だから、ちゃんと起こさないと。 「起きろよ……!」 白い腕を鷲掴みにした手が、もっと大きなそれにそっと包み込まれる。 葉瑠兄は引き剥がすように俺の指を持ち上げ、俺の肩を抱き寄せた。 「ん……」 ふいに、鼻にかかった音が聞こえた。 「理人さん!?」 目の前に、こぽ、と赤い飛沫が散った。 濡れた頰を拭った指先が、朱色に染まる。 これって、まさか―― 「血……?」 薄い唇の間からこぽこぽと赤い泡が溢れ、白いシーツを真っ赤に染めていく。 葉瑠兄が俺を押しのけ、理人さんの身体を強引に横向きにした。 途端にがぼがぼと口からとびだした鮮血が、びしゃびしゃと床に落ちる。 舞い散る血飛沫が、葉瑠兄の白衣の裾を汚した。 「桐嶋先生呼んで!」 なんだ……これ。 「英瑠!」 なんだ、これ。 「大丈夫だ!」 なんだこれ。 「理人くんは大丈夫だから!」 大丈夫? どこが? 誰が? わからない。 なにも、 わからない。

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