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終-3:午前10時の旅立ち (34)

ビニール袋をカサカサと揺らしながら吹き抜けていった風は、ほんのりと暖かかった。 空は青く、高い。 歩道に沿って続いていく桜並木にはたくさんの生命が芽吹き、はち切れんばかりに膨らんだ蕾たちが、その瞬間(とき)を今か今かと待ち詫びている。 きっと南の方ではもう、薄紅色の可憐な花が満開に咲き乱れ、見上げる人たちに今年も新しい春の訪れを実感させていることだろう。 そろそろこたつを片付ける時期かもしれない。 理人さんは悲しむだろうな。 この冬の理人さんは、暇さえあればこたつにハマってぬくぬくしていた。 布団を肩までかぶって、気持ちよさそうに顎をテーブルに乗せている様子があまりに面白いしかわいいしで、俺は何枚も写真を撮ってしまった。 たまにこっそり眺めてはニヤニヤして、さらにムラムラしてしまったりしているのは内緒だ。 ふたりでのぬくぬくタイム・イン・こたつは最高だった。 いかにもそれらしいことをしてみたいという理人さんの提案で、みかんの剥きっこ競争をしたり、足先を絡めあったり、時にはまあ、〝そういうこと〟になったりしたり。 うん、やっぱりこたつを片付けるのはもうちょっと先にしよう。 そんなことを勝手に決断して焦げ茶色のマンションを目指して角を曲がると、エントランスの前に見覚えのあるシルエットが見えた。 「理人さん?」 「あ、佐藤くん」 「おかえりなさい」 「ただいま」 スーツ姿の理人さんが、目を細めて俺を迎えてくれる。 駆け寄ろうとして、でもすぐに人影がもうひとつあることに気付いた。 「おう、お疲れさん」 理人さんの後ろから右手を上げて見せたのは、木瀬さんだった。 頭の奥がざわりと波打つ。 「どこか行ってた?」 「牛乳がなかったのでコンビニに……なにか、あったんですか?」 帰宅時にはいつも緩んでいるはずの理人さんのネクタイが首元できっちりと閉められ、ダークグレーのジャケットの下には同じ色のベストを着込んでいる。 その着こなしを見るのは初めてじゃないけれど、見るのはいつも決まって出勤前の朝だ。 それに……まただ。 また、理人さんと目が合わない。 「コラ、理人」 「いてっ」 「なに照れてんだよ。佐藤くんが心配するだろ」 木瀬さんに小突かれて、理人さんの視線がようやく俺を掠める。 でも留まらないまま、すぐに通り抜けていった。 「どう、したんですか?」 「その……今日、入れたんだ」 「入れた?」 「第六会議室」 「えっ!」 俯いたまま横顔を桃色に染める理人さんの髪を、木瀬さんがわしゃわしゃとかき乱した。

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