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終-3:午前10時の旅立ち (35)

「最初は動悸が激しくなって吐き気もして、目の前が真っ白になって、やっぱり無理かもって思ったんだけど……ゆっくり深呼吸して、時間をおいてもう一回チャレンジしてみたら入れて、入ってからも大丈夫だった。会議が終わるまで、ずっと中にいられたんだ」 ジャケットとベストを脱ぎ捨て、薄い空色のネクタイを緩めながら、理人さんがはにかむ。 持ち上がった頰肉に輪郭を変えられたふたつのアーモンド・アイが、キラキラと輝きながら蕩けた。 「それで正装だったんですか?」 「え?」 「スリーピーススーツなの珍しいし、仕事が終わっても着崩れてないから」 「あ、これは……まあ、うん」 「お祝いしましょう。ちょうど今夜はパンケーキだし」 「パンケーキ?」 「先週行こうとしたパンケーキ屋さん、いつの間にかなくなってて理人さん寂しがってたでしょ?だから、家でやってみちゃおうかと思って。夕飯なんで甘ったるいのは微妙だから、メキシカン・パンケーキのレシピ調べて……」 ふいに視界を長い腕が横切り、背中が温かくなった。 振り返ろうとすると、それを妨げるように胸の前で交差する右手と左手がより深く絡まる。 「理人さん?」 「……」 「どうしたんですか」 「……佐藤くん」 「はい?」 「東京への異動希望、出してもいい……?」  えっ……? 「本当はずっと打診されてたんだ、直後から……でも、決心がつかなかった。逃げるみたいで嫌だった。だけど、この間の診察で志生野先生に、前向きな理由なら環境を変えることは悪くないって言ってもらえて……それで、あの会議室に入れるようになったら具体的に考えよう、って、思って……」 消え入るように遠ざかった語尾が、僅かに緊張を伴った呼吸に変わる。 「ここは佐藤くんと出会った場所だから、離れたくない。でも、辛い思い出の方が大きくなってしまった……。書類が受理されたら、すぐに正式な辞令が出る。そしたら来月には東京に引っ越すことになって、たぶん、名古屋(こっち)にはしばらく戻ってこない。ここも貸し出すか、売るか……」 「行きます」 「え……」 「一緒に行きます。決まってるでしょう?」 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。 ぴくんと震えた手の甲を撫でると、ゆっくりと拘束が解かれる。 そして振り返って見た理人さんは、やっぱり泣いていた。 俺に捨てられるとか、別れを切り出されるとか。 この人はまだ、そんなことを心配していたんだろうか。 「誓ったでしょ。一生一緒にいるって」 「で、でも……っ」 「でも、じゃない」 「し、仕事とかっ……」 「どうとでもなります」 「お、お父さんとお母さんだってっ……」 「理人さん、うるさい」 「……っ」 「もう、黙れよ」 「あ……!」 言の葉を探して喘ぐ唇を塞ぎ、乱れた吐息をすべて奪い取った。 逃げ惑う舌を追いかけて擦り合うと、くちゅくちゅと湿った音が漏れ溢れる。 絡めた指の先が、薬指に佇む約束の証を掠めた。 細い金属のラインをゆっくりと辿ると、丸い玉になった涙が理人さんの下まつ毛を揺らす。 やがてそれは密着した頰の境界を越え、しっとりと俺の肌を濡らした。

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