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終-3:午前10時の旅立ち (36)
タクシーから降りると、乾いた風が前髪を跳ね上げた。
つい先週まで花びらを舞い散らせ、儚い生命の美しさを体現していた桜の木も、見上げるとその半分はすでに若葉色に浸食されている。
歩道を行き交う人たちのほとんどは薄手のコートを腕に掲げ、中にはそこにスーツのジャケットを重ねている人もいた。
新しい世界に飛び出すには、最高の季節だ。
「いらっしゃいませー」
コンビニの入り口を潜ると、サイード君が爽やかに出迎えてくれた。
俺を見て僅かに目を見開き、すぐに隣のレジに声をかける。
薄茶色の袋に入ったからあげ様をスーツ姿の男性に手渡すと、彼女はいそいそとこちらにやって来た。
「宮下さん、お疲れ様です」
「お疲れ様!引越し今日じゃなかったっけ?」
「これから駅に向かうんで、なにかお供にと思って。アイスカフェラテのL、ふたつください」
「かしこまりました。神崎さんも一緒?」
「はい。オフィスに顔出してます」
10分くらいで戻る。
理人さんがそう言い残してタクシーを降りてから、もう15分が過ぎていた。
本人は軽く挨拶するだけのつもりだったようだけれど、きっと出くわす人たちみんなから別れを惜しまれているんだろう。
時計を気にしながらもあちこちから優しい言葉をかけられて涙ぐむ理人さんを想像したら、心が暖かくなった。
「360円です」
「ペペイペぺでお願いします」
「かしこまりました」
スマートフォンが音を立てて決済を済ませると、宮下さんが後ろを向き、乳茶色の液体でいっぱいになったプラスチックのカップをふたつ手に取る。
透明のカップが手早く装着されると、中の氷が音を立てて崩れた。
「宮下さん」
「んー?」
「ありがとうございました」
「えっ……?」
「宮下さんがいてくれなかったら、俺、きっとここまで頑張れなかった」
「わたしはなにもしてないよ?」
「なにも言わずに見守っていてくれたことが、救いだったんです」
志生野先生の言葉は正しかった。
理人さんが戦っている間、俺にはなにもできない。
そばにいてくれるだけでいい、抱きしめてくれるだけでいい。
いくらそんな風に甘く掠れた声で囁かれても、心の奥で燻り続けるもどかしさを払拭することはできず、無力な自分を受け入れることは、想像していたよりもずっと辛く、苦しいことだった。
だからこそ、すべてを知っていながら、ずっと変わらずに接していてくれた宮下さんの笑顔が、俺にとっての救いだった。
理人さんにとって、俺の存在がそうであったのと同じように。
「本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げると、スン、と鼻を啜る微かな音がした。
宮下さんの大きな瞳から、キラリと輝く小さな粒が零れる。
「やだもう、泣かせないでよ」
「ごめんなさい」
「元気でね」
「宮下さんも」
「こっちに来る時は絶対に顔出してね」
「はい」
「ふたりで幸せになってね」
「はい――必ず」
俺はしっかりと頷き、コーヒーカップを受け取った。
指の腹が心地よく冷えていくのを感じながら、レジカウンターに背を向ける。
そして、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
さまざまな食品のにおいが互いに入り混じりながら、鼻腔をくすぐってくる。
この五年間、ほとんど毎日嗅いでいたにおい。
大多数の人にとって、コンビニはその名の通り、ただ『便利な店』でしかないのだろう。
必要な時に、必要なもの物をたいていの場合、手に入れられる。
そんな無機質でどこにでもあるはずの空間が、いつの間にか俺の〝特別〟になっていた。
音大で大好きなピアノを学び、そこそこの成績を修めて意気揚々と卒業した俺は、輝く未来を約束されたと信じていた。
でも、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
世界を股にかけ輝かしい活躍を見せる同級生を尻目に、この世界は不公平の塊だ、なんてふてくされていた未熟で不完全だった俺を受け入れてくれたのが、この場所だった。
そして俺は、理人さんと出会った。
ここは、たくさんの思い出が詰まったかけがえのない場所。
大切な場所。
俺の――戦場。
寂しくない、そう言ったら嘘になる。
でも俺は、選んだから。
あの人と一緒にいるって、決めたから――。
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